左膝前十字靭帯損傷

 

Jリーグヴィッセル神戸のレアンドロ選手が、

左膝前十字靭帯損傷および半月板損傷という、

全治6カ月の大ケガを負ったらしい。

 

同じケガの先輩?としては、

そのツラさがよく分かる。

まず、2日くらいは痛くて眠れない。

膝に少しでも力がかかったら、激痛で目が覚めるから。

起きてる間も、歩くのがとても難しくなる。

膝にまっすぐ体重を乗せれば大丈夫なんだけど、

ほんの少しでも横にずれるだけで、

やはり激痛で身もだえする。

 

さらにツラいのは、前十字靭帯は完全に切れてしまうと、

自然治癒しないということ。

極端に血行が悪い場所なので。

だからスポーツ選手がこのケガをすると、

ほぼ確実に手術になる。

ちなみに私のように手術をしなかった場合でも、

日常生活や、普通に運動をすることはできる。

ただ、急激な方向転換を伴うバスケやサッカーといったスポーツを、

継続的に行うのは難しい。

プロのサッカー選手なら、手術するしかない。

 

手術は基本的に、自分の身体から靭帯や腱の一部を切り取って、

前十字靭帯の代わりとして移植する。

膝の前の靭帯や、太腿の裏にある筋肉の腱を使う。

だから、リハビリがホントにキツい。

手術をすることで、2ヶ所ケガしたようなものだから。

さらに、自然治癒しない場所ということは、

移植してもなかなか定着しない。

ただ動けずに月日だけが過ぎていく。

筋力はゴッソリ落ちる上、メンタル的にもキツい。

もちろんフィギュアスケートの高橋大輔さんのように、

復活して活躍する選手もいる。

でもそれ以上に、

パフォーマンスを落としてしまう選手がいることも確か。

前十字靭帯損傷とは、それくらい大変な事態なんだ。

 

レアンドロ選手のニュースを見て、

久しぶりに膝のケガについて考えさせられた。

同じケガの経験者として、

1日も早い復帰を祈っています。

 

天動説を地動説へと書き直す

 

「ちゃんと足下をみろよ。地面が動くわけないだろ。」

ガリレオはいったい何度、この言葉を聞いたことだろうか。

 

天動説と地動説ってあるよね。

ガリレオが言った、

「それでも地球は動いている」

ってやつ。

コペルニクス的転回、なんて言葉も有名。

中世キリスト教世界において、

太陽と地球、どちらが中心なのかという問題は、

よほど重要なものだったらしい。

ガリレオさんは裁判に負けてるわけだし。

当時は宗教的理由から天動説が採用されてたけど、

今は地動説が当たり前。多分。

幸い現代においては天動説を唱えたからといって、

裁判沙汰にはならない。

脱力トレーニングなんて変わったことをやってる身には、

良い時代だと思う。

 

それはさておき。

太陽系における中心は地球じゃなく太陽。

This is 地動説。

そこは良いよね?

で、その太陽も銀河系の中をグルグル回ってる。

1周するのに2億2600万年かかるらしいから、

グルグルってのも変だけど(笑)

ともかく、太陽が動くところに地球は回りながらついていく。

何かの拍子に太陽が動く向きを変えれば、

地球の行き先も変わる。

でも、逆はない。

仮に地球が太陽系を飛び出しても、

残念ながら太陽はついてこない。

来てくれるのはお月さまだけ。

 

脱力トレーニング的には人のカラダもこれと同じ。

中心が動けば手足も動くけど、

普通は手足が動いたからと言って中心が動くわけじゃない。

だから、カラダを効果的に動かしたければ、

全身の力を抜いて、

まずは中心から動き出せばいい。

それは、手足主導系の動きから中心主導の動きへの、

あるいは筋力主導の力から重力主導の力への、

コペルニクス的転回。

それは、自分のカラダの天動説を、地動説へと書き直す作業。

ことカラダに関しては、現時点でまだまだ天動説が主流だけど、

鉄の意思で地動説を唱え続けたい。

ガリレオのごとく。

 

心身一如

 

歯医者さんが苦手、だった。

得意な人がいるのかって話だけど。

でも、それはもう、過去の話。

今日、俺は歯医者さんを乗り越えた‼︎

…って3歳児が言いそうなことを書いてるけど、

別に冗談でやってるわけじゃない。

俺がたまたま歯医者さんが苦手だったというだけで、

他に置き換えれば苦手なものくらい誰にでもあるでしょ?

今日はそういう苦手意識に対処するメンタルについての話。

 

午前中の診察だけあって、院内には治療を受ける子供がたくさんいた。

歯医者さん+子供=泣き声

という公式は、今日もそのまま適用された。

周りの大人達はそんな時、

「ガンバって」と声をかける。

でも、ガンバったら痛くないのか?

ガンバったら、怖くないのか?

その答えは、一向に泣き止まない子供達が示している。

どれだけガンバっても、

痛いものは痛いし怖いものは怖い。

「じゃあ、お前は何ていうんだよ」

って訊かれると、残念ながら答えられない。

ただそれは、相手が子供だから。

大人相手なら全く別の話。

歯医者さんで泣く大人はなかなかいないけどw

 

メンタルトレーニングってあるよね。

スポーツ選手とかがやってる。

あれが必要なのは、何もスポーツ選手に限った話じゃない。

むしろ、カラダを動かす習慣のない普通の人にこそ、必要なんだ。

別にスポーツの試合をしなくても、

腹が立ったり不安だったりするでしょ?

っていうか、人によっては日常茶飯事(笑)

でも、そんな気持ちになりにくい方法があれば、

毎日がもっと楽しくなりそうじゃない?

というわけで、今からその方法を紹介しようかと。

といっても残念ながら、読んでハイそうですかというものじゃあない。

こういう方法があって、ちゃんと訓練すれば使えるようになるよって話。

で、その方法とは?

 

心身一如って言葉を聞いたことがあるかもしれない。

見たまま、ココロとカラダは一つのものですよってこと。

だから、ココロが不安定だとカラダも不安定だし、

ココロが安定してればカラダも安定する。

だから、難しい病気の人が、心掛け次第で急に治ったりする。

身近でそういう話を聞いたりもするしね。

逆に、カラダが不安定だとココロも不安定になるし、

カラダが安定してればココロも安定する。

で、ここで言いたいのはこっちの方。

「ココロが揺れた時に、カラダを安定させてみる。」

すると、不思議とココロも落ち着いてくる。

言葉にすると、ただこれだけ。

うまくカラダが安定すれば、

ホントにそれだけで怒ったり不安を感じたりしにくくなる。

ちなみに先日の講習会では、こんなことを12回、実際に体験してもらった。

もちろん人によって反応は様々だったけど、概ね好評だったと思う。

カラダの状態を変えることで、

ココロも大きく変わることを体感してもらえたからね。

とっても大変だったけど、またやりたいな。

 

 

 

卓球大阪オープンにトレーナー帯同してみた

 

こんにちは、ワタルです。

今日は難波のエディオンアリーナからお送りしますw

 

「大阪国際招待選手権」、通称「大阪オープン」という卓球大会に修練生が出場するので、

トレーナー兼1人応援団として現地入り。

全国規模の大会を平日にもやるせいか、周りは学生ばっかり。

場違いな感じがとても新鮮で面白い。

修練生の試合までは3時間ほどあったので、まずは客席で修練生のマッサージ。

ベッドもなければ場所も狭い。

だけどそれが逆に楽しい。

記念すべき初トレーナー業務ってところか。

 

1時間程して、試合会場へ。

全国大会を選手目線で観るのは、今後の指導のためにも役立つ。

そうそう、世界ジュニア優勝メンバーの木造君のプレーも間近で拝見。

技術的な部分はさておき、軸の通った立ち姿はさすが。

「脚の脱力がもう少し出来れば、もっと良くなるのに…」

とつぶやいたら監督が振り向いたので、急いで退散(笑)

インターハイチャンピオンのレベルを感じられたのは大きな収穫。

決して届かない場所ではないと思えたしね。

 

肝心の修練生も無事に1回戦を突破。

ちゃんと脱力を意識してのプレー、教えた甲斐があるなぁ。

…と思ってたら、2回戦はあっさり負けた。

脱力卓球の道のりは、まだまだ長い。

木造君のレベルもまだまだ遠い(笑)

 

「心を撫でる」茶道体験記

 

先日、知り合いの紹介で、人生初の「茶席」に参加してきた。
亭主は宇田宗風先生という茶道の教室をされている方。
初対面にもかかわらず全く緊張感を感じさせないのは、流石。
説明を含めてのの1時間は、
本当に貴重で興味深いものだった。

 

[ad#co-1]

 

先生の教室兼ご自宅があるのは、
阪急仁川駅から数分歩いたところ。
仁川に来るのは初めてなのだけれど、
駅を出ると、とても静かで落ち着いた感じ。
約束の19時までには少し時間があったので、
周囲を20分ほど散歩してから、
先生の教室へ向かった。

教室ではまず玄関で簡単な説明をしてもらい、
それから茶室へと案内された。
ちなみに茶席の本来の在り方では、
このような形で亭主と客が顔を合わせることはないとのこと。
茶室へ至るまでのいくつかの作法における「音」を頼りに、
亭主は客の、客は亭主の状況を理解して、
それぞれの手順を踏んでいく。
だから一つ一つの作法には意味があり、
お互いへの言葉を介さない心配りに満ちている。

案内された茶室は、
ロウソクの火に照らされた屏風が静かな空気を醸し出して、
不思議な落ち着きを感じさせる。。
出されたおいしいお茶菓子を頂いたのち、
先生のお点前を拝見した。

印象的だったのは、茶道具の扱い。
もちろん作法的な手順という部分もあるのだろうけど、
驚くほど丁寧に茶道具を扱う。
袱紗をたたむ、茶碗を拭く、柄杓を持ち替える。
そういった普段であれば何気なく行う動作の一つ一つに、
傍から見ると無駄にさえ思える手間をかける。
私はただ黙ってそれを見ているだけ。
けれど、不思議なくらいに心地よい。
そうしているうちに分かったことがある。
「なぜ、道具を大事に扱うことが大切なのか。」
それは、客が無意識のうちに、
扱われる物に自分を映しているから。
あれだけ心を込めて道具を扱っている姿を見ることが、
自分に対するもてなしだと感じる。
茶碗を拭いたり柄杓を持ち替える所作が、
まるでそのまま客の心を撫でているかのように。

これは面白いけど怖いことでもあって、
目の前で道具を雑に扱われると、
自分が乱暴に扱われたように感じるわけだ。
気を付けねば。

もちろんお茶もお菓子もおいしかったけど、
今回感じた「お茶」とは、
「茶道具を介した間接的コミュニケーション」だと言えるかもしれない。
作法を何も知らないため、
合間合間に先生からの説明はあったけれど、
それが無ければ本来は直接的に言葉を交わすことはない。
むしろそれが余計なものだと感じてしまうくらい、
客に対する言外の配慮に溢れている。
この「間接的」というところに日本文化の粋があり、
西洋的なものとの大きな違いを生んでいるのだと思う。
間接的だからこそ、直接には触れないはずの「心」に触れられる。
そこが茶道の大きな魅力なんじゃないかな。
もちろん精進を重ねた上での話だろうけど。

…長々と感想を書いたけれど、
今回お伺いした宇田宗風先生のブログとホームページはこちら。

ブログ:http://soufu.blog.eonet.jp/
ホームページ:http://chanoyu.wix.com/sadotherapy

お茶に興味があるなら、
ぜひおすすめ!!

 

気付いているけど、気にしない

 

今、これを読んでいるあなたの状況はどんなものだろう。

仕事帰りの電車の中で、暇つぶしに。

寝る前、布団に入って寝物語に。

ちなみに書いている私は、修練前の夕方、

三宮駅東のモスバーガーの一席にいる。

ホットドッグと紅茶という、

組み合わせとしてはいささか微妙な注文をして。

じゃあ、ホットドッグに合う飲み物って何?

ビール?コーラ?

とりあえず炭酸系なら何でも良い気がする。

紅茶やコーヒーは少しハズれると感じるのは、私だけだろうか。

 

[ad#co-1]

 

それはさておき、このブログを読むためにはおそらく、

あなたはスマホかパソコンに触れているだろう。

それには、どんな感触がある?

モスバーガーでiPad miniを持っている私の手には、

縁の角ばった感じや、材質の硬い感じ、

持ち続けると意外に重い質量が感じられる。

iPadは単体だと軽いけれど、

カバーを付けると途端に重くなるのが珠にキズ。

スリープ機能付きで軽くて、なおかつ衝撃吸収するカバーが欲しい。

と、私が感じていることを言葉にするとこんな感じになる。

あなたも、私と表現は違っても、

なにかの感覚をその手に感じているハズだ。

そしてその感覚はあなたの気持ちや考えに影響する。

意識しているかどうかに関わらず。

 

さてここで一つ、お願いがある。

今、手に触れているスマホやキーボードから、

手を離して欲しい。

もちろん、床にスマホを落としてくれとは言わない。

ただ一度、近くに置いて欲しいだけ。

そして、空になった手の感覚を感じてみよう。

どう感じるか、は人それぞれ。

何も持っていない手はこんな感じがするというだけだ。

ではあらためて、スマホやキーボードに触れる、と思ってほしい。

まだ触れちゃダメw

手を近づけるけど、触れない。

この時の手には、どんな感覚を感じるだろうか。

おそらく、空の手とは違う感じがするだろう。

感覚の鋭い人ならすでに、

スマホの触感に近いものを感じているかもしれない。

 

このように、触れる前に触感を感じることで、

私たちの脳はスマホを持ち上げる準備をしている。

その触感に合わせて、身体も態勢を整えてから、動く。

というのが普通の人の運動のやり方。

これは力の調節においては有効だけれども、

自分の動きを制限してしまうという副作用もある。

触れる前、そして触れてから感じる触感によっては、

身体が先に、動くことを諦めてしまう。

武術の練習で言えば、踏ん張って立っている人を見た途端、

あるいは触って固いなと感じた途端、

技を掛けることが出来なくなる。

だから上達のためには一度、

この運動のやり方をやめなければならない。

 

無意識に行っている準備を、やめる。

それは、見たものに対する扱い方を変えること。

相手が踏ん張って立っている事は、見れば分かる。

にもかかわらず、まるで空気を撫でるように、

ただブランブランの腕で技を掛ける。

何事も無かったかの如く。

エアギターならぬ、エア武術。

いや、ここは普通に「型」でいいか。

相手の状態には気付いてるけど、全く気にしない。

相手が踏ん張っている?でもそんなの関係ねー!!って感じ。

これは相手を無視するのとは違う。

見てみないふりをするのでもない。

固まった相手がいるにもかかわらず、空気のように扱う。

文字にするととっても失礼なことをしているみたいだけど、

上手くいくと不思議なくらい簡単に技が掛かる。

あっけないくらいにあっさりと人を転がすことが出来る。

今まで苦労してきたことは何だったのか!?ってくらいに。

あ、間違っても今、手に持っているスマホで実験はしない方が良い。

どこかに飛んで行っても、自己責任ということで。

 

気付いているけど、気にしない。

こんなことを考えながら修練していると、面白いことに気が付いた。

「人を柔らかいものだと感じられると、不思議と優しい気持ちになる。」

ポイントは、触感にある。

空気のように人を扱う方が、実は大切にすることが出来るというw

これは、武術の技がかかることと同じくらい、

私にとっては大きな発見だった。

…でも、気にしないでおこう。

 

中心感覚、あるいは手の再発見

 

「気持ち悪い」

初めて修練に参加する人に、よく言われる(笑)

先日、初対面の方4人に、

武颯拳をお伝えする機会があった。

そういう時には大体、カラダをグニャグニャと動かすところから始める。

肩甲骨、鎖骨、肋骨、背骨、骨盤。

それらを出来るだけバラバラにするように。

肩や腰をガッチリ掴まれても、

まるで抵抗なく動けるように。

ちなみにこの4人、本当に熱心な人ばかりで、

修練は心から楽しめた。

そしてそんな気持ちの良い人からも、

ちゃんと頂いた「気持ち悪い」のお言葉。

実は彼らだけでなく、私自身も感じている。

ただ、その感じ方は真逆を向いていると思う。

「こんなにグニャって気持ち悪い」

のか、

「この程度しか動かなくて気持ち悪い」

のか。

どっちにしても、「気持ち悪い」ことには変わりがないか。

 

[ad#co-1]

 

この、グニャグニャ動く目的の一つは、

「中心感覚」を身につけることにある。

手足という末端を直接的に動かさない。

腰やお腹、股関節といった、

身体の中心を柔らかく動かすことで、

結果として手足が動く。

文字にすると簡単に思えるかも知れないが、

ハッキリ言って思い通りにはならない。

例えば手が動くように腰を動かそうとしてみる。

途端、自分の手が何処にあるのか分からなくなる。

いきなり手を動かすというやり方においては、

身体に麻痺のある人以外はみんな、

自分の手がどこにあるかを知っている。

けれども少しだけ動かす順序を変えただけなのに、

手の存在を見失ってしまう。

自分のカラダがブラックボックスだと気付く。

その中を手探りで、いや、手を探すのに手探りは出来ないな、

とにかく自分の手を見つけ出さないといけない。

腰やお腹をグニャグニャと動かしながら、

身体の中心と関連付けた形での手を再発見する。

そんな作業を楽しめるかどうか。

それが上達への分かれ道。

再発見することができた時。

その手はきっと、武装色の覇気を纏っている。

 

私自身はというと。

駅のホームで電車を待ちながら。

コンビニの雑誌を立ち読みしながら。

エレベーターの行き先階表示を見ながら。

気付いたら腰をグニャグニャと動かしている。

確かに、気持ち悪い(笑)

けど、そんな気持ち悪い自分が結構好きだったりする。

 

活人剣と殺人剣(卓球の試合に思うこと)

 

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

というわけで、新年最初のブログ更新となります。

テーマは「殺人剣と活人剣」。

このテーマで記事を書こうと思ったきっかけは、

修練後に卓球のIさんに聞いた、

「パワーとスピードで押してくる関西3位の大学生よりも、

それらで上回っている全国2位の小学生の方がやりにくかった。」

という、宝塚オープンの試合の感想にあります。

 

[ad#co-1]

 

実際、その大学生には最初のセットで圧倒されたものの、

徐々に形勢を挽回して逆転勝ち。

小学生には完敗だったそうです。

そのことについて本人は、

「大学生の打つ球は、感じようとし続ければ、

そのボールの力の量や質が分かるようになった。

でも、小学生の球は、それらが全然分からなかった。

それが勝因と敗因だと思う。」

という意味のコメントをしていました。

さらには、

「その大学生と小学生が試合のをしたら、

大学生の圧勝だろう。」

とも。

この話を聞いて、「殺人剣」と「活人剣」の違いがよく出ていると思ったのです。

 

少し前に映画にもなったマンガ、

「るろうに剣心」を読んだことがあれば、

これらの言葉自体は知っているかと思います。

あのマンガでは、主人公の緋村剣心が逆刃刀(さかばとう)を使い、

不殺(ころさず)の誓いを守りながら、

明治の新しい世に馴染めない剣客と闘います。

そんな剣心には、幕末の京都で「人斬り抜刀斎」として、

数多くの命をその剣で奪ってきたという過去があります。

つまりある意味ではこのマンガは、

「緋村剣心」と「人斬り抜刀斎」との闘いの物語だと言えるのです。

そして剣心が使う人を守る為の剣を「活人剣」といい、

抜刀斎や敵の使う人を斬る為の剣を「殺人剣」という。

これがこの作品における「殺人剣」と「活人剣」の定義ですし、

多分多くの人が持つイメージでもあるでしょう。

ところがこのイメージ、

物語の中で扱うには確かに分かりやすくて良いのですが、

実は本来の意味とは違います。

私も直接文献を調べたわけではないのですが、

元々は柳生新陰流で使われる言葉だったと記憶しています。

そこにおける「活人剣」とは、

「相手を動かしておいて、その動きを活かして斬る闘い方」

の事です。

対して「殺人剣」とは、

「相手の動きを封じて斬る闘い方」

なのです。

この本来の意味での2つの闘い方の違いが、

Iさんと大学生の間にもあるなぁと思ったわけです。

 

大学生は関西3位だけあって、

そのパワーとスピードは相当なものだったそうです。

それによって、相手が打てない所に打ち込んで勝つ。

これは闘い方としては「殺人剣」にあたります。

反対にIさんには、大学生のような派手さはありません。

思い切りスマッシュを決めまくるタイプではなく、

相手のボールを確実に返しながら次第にペースを握るのです。

最初は相手に思うように動かせておいて、

そこから様々な情報を集めて勝ちにつなげる。

これは大学生とは逆に「活人剣」的だと言えるでしょう。

断っておきますが、どちらが優れているという事を言いたいのではありません。

物語の中では「活人剣」の方が響きが良いでしょうが、

現実には、自分に合ったやり方で良いと思います。

その時々で求めるものも変わってくるはずですから。

ただ、それぞれの特徴を知っておく事は重要です。

それによって、今回のIさんのような例でも、

なぜ大学生に勝てたのに小学生には負けたのか、

その理由が理解できます。

 

Iさんの闘い方において重要なのは、

繰り返しますが「情報」です。

出来る限り脱力しながら、

相手のボールの情報を感じ取る。

また、脱力による力で打つことで、

自分のボールの情報は与えない。

こうすることで、パワーとスピードで上回る相手から、

試合の主導権を奪っていくのです。

大学生の打つボールは確かに速くて強いけれども、

その分Iさんにとっては情報が集めやすかった。

だから結果として逆転勝ちにつながったのです。

けれども小学生が相手だと、

情報収集が難しかったのでしょう。

大抵の場合、子供は大人より脱力出来ています。

そしてパワーやスピードはそれほどでもない。

つまり、ボールから得られる情報量が極端に少ないのです。

情報を頼りに闘うIさんのスタイルには天敵と言えるかもしれません。

逆にペースを崩されて負けてしまった。

ここが今回の話のポイントになりますが、

一般的には強いはずの大学生に勝てたのに小学生に負けたのは、

「活人剣」と「殺人剣」では「強さの基準が違う」からなのです。

 

大学生のパワーとスピードは、

あくまで処理出来る範囲の情報量だったのに対し、

小学生のボールからはそもそも情報が得られなかった。

それが試合の勝敗を左右するということは、

「活人剣」における強さの基準は「処理可能な情報量」にあるということです。

「殺人剣」では、スピードとパワーが強さの基準となります。

卓球で言えば、速くて力強いスマッシュや、

回転量の多いカットやドライブを打てるかどうか。

武術においては、どれだけ威力のある突きや蹴りを出せるか。

そういった部分が強さを決めるのが「殺人剣」。

それに対して、自分と相手の状態をより正しく把握する。

そしてその状態における適切な行動を取る。

そんな情報の収集と処理の能力が強さに繋がるのが「活人剣」なのです。

このように強さの基準が違うということを理解すれば、

大学生に勝って小学生に負けたという結果にも納得がいくでしょう。

やり方次第では、大人が必ずしも子供より強いとは限らない。

男性が常に女性より強いとも限らない。

何を基準として競うかで、その結果は変わってくる。

Iさんの話を聞いて、そんな所に面白さを感じました。

 

12/14武颯塾大阪支部セミナーレポート

 

こんにちは、ワタルです。

今日は、12/14に行われた武颯塾大阪支部のセミナー、

「How to 脱力」のレポートを書きます。

 

今回のセミナーにおいても前回と同じく、

「どうやったらカラダの力を抜けるのか?」

「リラックスしたら、カラダはどう動くのか?」

について、体感して理解してもらう事がテーマでした。

 

それにより、力を抜けなくさせている大きな原因となる、

「力を抜いたら弱くなる」

というカン違いを取り除く。

そのために、

「力を抜いて、力を出す」

という、カラダ本来の使い方を数多く経験する。

より自然で無理のない動きに近づけていく。

それが、今回のセミナーだけでなく、

武颯塾の修練全般に共通する目的です。

 

その意味において、「脱力」を学ぶことは、

武術やスポーツに取り組む方以外にも、

大きな意義があります。

今回のセミナーには、

消防・救急関係や理学療法士をはじめ、

主婦や学生を含めた様々な方々に参加頂きました。

 

今回に限ったことではありませんが、

武颯塾の修練は一般的な武術の稽古とは随分違います。

立つ、座る、歩く、腕を伸ばすといった、

日常の中で当たり前にしている事を取り上げます。

こういった基本的な動作を改善していく修練なので、

様々な方々の役に立つと自信を持って言えるのです。

 

実際、今回のセミナーで行ったことは、

寝転ぶ、腕を伸ばす、歩くという3つの動作です。

これらの動作を筋力と脱力とで比べながら行うことで、

その違いについてよりハッキリと理解できるのです。

普段何気なくしている動きだけに、

最初は脱力でやることに対して戸惑いを感じたかもしれません。

けれども「力を抜いたら力が出た」という体験を重ねるうちに、

師範の説明をより熱心に聴かれていたのが印象的でした。

 

またセミナー後半には、私に見えていた限り全ての参加者が、

3つの動作を脱力で行うようになっていました。

その意味においては、

「脱力を体感して理解してもらう」

というセミナーの目標は達成できたと思っています。

 

あとは願わくば、今回参加頂いた方々には、

今後の生活でも脱力を活かしていただき、

周りの人たちにも伝えて貰いたいです。

そうやって脱力の輪が広がること。

それが私達がこのセミナーにかけた想いです。

是非ともご協力をお願いします。

 

最後になりましたが、

年末の忙しい時期に参加頂いた皆様に、

心よりお礼申し上げます。

今後とも武颯塾大阪支部をよろしくお願い致します。

 

感覚の嘘

 

こんにちは、ワタルです。

今回のテーマは「感覚の嘘」。

自分の主観的な感覚を、客観的な事実に近づけていく。

これは特に武術の修練に限らず、

何かに取り組み上達する為に必要なこと。

というよりも、このこと自体が上達なのだ。

最近の修練において、強くそう感じるのです。

 

[ad#co-1]

 

武術やスポーツなどの身体運動においては、

自分の感覚が運動力学という物理法則に近ければ近いほど、

そのパフォーマンスは上がる。

しかし私のようにもともと運動が得意ではない人は、

感覚と物理法則との距離が大きく離れている。

その距離をハッキリと感じるのが、

自分のカラダに対しての「重さ」の感覚です。

例えば相手にカラダを持ち上げらるという修練において。

この修練の目的は、自分のカラダが簡単には持ち上げられない状態になること。

単純に言えば、重たいカラダになる修練だと言える。

もちろん自分の体重を自由に変えられるわけではないので、

正確には「相手が重たいと感じるカラダになる」ことが目的。

先に言うと、私自身はこの修練が苦手です。

相手が重たいと感じるようにするために、

どうしても「自分が重たいと感じる」ことをしてしまう。

すると、持ち上げる方としては楽に上げることが出来る。

そんなことを学習もせずに延々と繰り返してきたのだけれど、

最近ようやく理解しました。

「自分が感じる重さと相手が感じる重さとは違う。」

自分の腰が重いと感じる時、相手は私の腰を軽いと感じている。

逆に自分の腰が軽く感じるように力を抜くと、

相手は私の腰を重いと感じる。

そう、「感覚は嘘をつく」のです。

この、自分の感覚と相手が感じるものとのギャップは、

すなわち感覚と物理法則との距離。

そしてこの距離を縮めていくこと、

つまり自分の感覚に対する認識を変えていくことが、

本当の意味での上達だと言えるのです。

そしてこの「感覚の嘘」は下向きの力である「重さ」だけでなく、

あらゆる方向への「力」全般に存在します。

例えば歩いている時の足の裏。

普通はギュッと地面を押している時に、

前へ進む力が出ていると思いますよね?

でも実際にはギュッとなった足裏が、

徐々に軽くなって地面から離れていく過程で力が出る。

このような力に対する感覚の嘘を暴いていくこと。

それが、脱力修練なのです。

 

ちなみに流行りの健康法にはとかく、

一人でできることを謳ったものが多いですよね。

けれども自分の感覚がここまで当てにならないものだから、

やはり修練には相手が必要なのです。