力を抜いたら立てないのか?

 

先日、修練仲間の話を聞いて印象に残ったことがある。

「ストレッチ教室に毎回来てくれる人がいるのだけれど、

『力を抜いたら立てないですよね』というところから話が進まない」

これは脱力を学ぶ上で、避けては通れない道だと思う。

この「力を抜いたら立てない」というコメントには、

脱力に対する勘違いが象徴的に表れている。

そこで今回は、「脱力」を実際に使う上で必要となる、

基本的な考え方について書いていきたい。

 

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脱力における大きな勘違いに気づく

「力を抜いたら立てない」と思っている人は、

力を抜くことを「立つことをやめること」だと勘違いしている。

だから、力を抜くと立っていられない。

それは立つことをやめたのだから当たり前。

立つことをやめたのに立っていられたら、

むしろ座る時や寝るときに困ってしまう。

「立っている状態で力を抜くことは、

立つことをやめることではない。」

ほとんどの人は、立つという「行為」と「力み」とが、

切り分けられないものだと勘違いしている。

脱力を学ぶ上で、これを理解することが1つ目の大きな壁になるだろうし、

おそらくストレッチ教室の生徒さんもここで躓いていると思う。

 

力が抜けた感覚を知る

1つ目の壁である「行為と力みの同一化」という勘違いを理解しても、

おそらくまだ「力を抜いて立つ」ことは出来ないと思う。

それは「力の抜き方」が分からないからだ。

そこで、「上げた腕を落とす」という、

比較的簡単にわかる方法で力を抜くことから脱力修練は始まる。

リンゴが木から落ちるように腕にも重力が働いているので、

何も考えずに力を抜けば上げた腕は落ちる。

腕が落ちたという結果を手掛かりにして、

力を抜くという感覚を掴むのがこの修練の目的。

そして同じことを脚で行えば、

脚の力が抜けた感覚(のようなもの)が身について来るだろう。

 

2つめの勘違いに気づく

ところがこの「脚の力が抜けた感覚(のようなもの)」だけではまだ、

「力を抜いて立つ」ことが出来ない場合が多い。

少なくとも私の場合はそうだ。

そこで、「力を抜けばいつも同じ感覚になるはず」

というもう一つの勘違いを正す必要がある。

ただ上げた腕や脚を落とすという場合には、

自分自身の緊張以外、基本的には何の抵抗もない。

ところが立っている状態においては、

自分の体重分の力が地面から足の裏に加わっている。

上げた腕や脚の力を抜くのと、

立っている状態で脚の力を抜くのとでは、

違う感覚を感じて当たり前なのだ。

それにも関わらず私自身は、

「脚の力が抜けた時の感覚を求めながら、立っている状態で力を抜く」

ということを長い間行っていた。

だから、脚の力が抜けなかった。

 

力を抜いて立つために

以上のことから言えるのは、

立っている状態で脚の力を抜くためには、

「足の裏に感じる地面からの力」を受け入れなくてはいけない。

「抵抗が無い時に力が抜けた感覚」を頼りにしていては、

いつまでたってもそれを感じることは出来ない。

なぜなら立っている以上、力は常に加わっているのだから。

「力が抜けた感覚」ではなく、「力を抜く感覚」を知る。

これが、「力を抜いて立つ」ために必要なことなのだ。

そしてそれが理解できれば、

「上げた腕や脚を落とす」という恐ろしく地味な修練が、

とんでもなく奥深いものへと一変する。

「落ちた後」や「落ちている間」もさることながら、

「落ち始める刹那」の感覚を捉えることがその目的へと変化するから。

私自身はこの変化こそが脱力修練のおもしろさだと思うのだけど、

いかがだろうか?

 

 

脱力そのものに意識を向け続ける

 

最近、テレビや新聞などで「脱力」という言葉を目にすることが増えてきました。

先日はNHKの番組内で、塩谷哲さんというピアニスト・作曲家の方が、

ピアノにおける脱力の必要性を伝えていました。

オランウータンやハトを例に出した面白いものでした。

さらにもう少し前になりますが、朝日新聞の記事にオーレリー=デュポンという、

バレエのオペラ座のエトワールの方へのインタビューが載っていました。

そこで彼女は振付師の勅使河原三郎さんから、

「全身の力を抜く事と身体中の関節を意識すること」

を要求されていて、それがとても難しいと言っていました。

このように様々な分野のトップの方が「脱力」について語ることで、

その効果や必要性がより一般的に認知されることは嬉しい限りです。

しかもそれが、スポーツや武道に限らず芸術方面にも役立つというのが、

脱力の魅力の一つだと思います。

 

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脱力トレーニングは感覚のトレーニング

そんな「脱力」を学んで行く上で難しいと感じるのが、

「自分の感覚がアテにならない」

ということです。

師範からはたびたび、

「脱力修練は感覚のトレーニング」

であると言われます。

感覚器官としてのカラダが感じていることを、

アタマが正しく認知できるようになることが重要なのです。

ところがほとんどの場合、アタマは自分勝手な解釈をしてしまいます。

それをやめてフラットな状態で感覚をとらえる。

それが脱力のトレーニングにおいて重要なのです。

 

陥りやすい勘違い

自分勝手な解釈の例の一つして私自身のことを挙げましょう。

脱力トレーニングをしていると、「力を抜いた感覚」が分かってきます。

肩の力を抜く前と抜いた後の、感覚の違い。

「抜く前がこんな感じで、抜いたらこんな感じになった。

だから、力を抜いた感覚というのはコレなんだ。」

と思って、「力を抜いた感覚」に合わせていく。

それが「脱力」だと思っていました。

だから、力を抜いたらすぐに、

「力がちゃんと抜けているかな?」と思って、

その感覚が感じられるかどうかを確認していたのです。

そして、それが「感覚のトレーニング」だとも考えていました。

 

脱力は確認不能?

ところが最近、愕然とする事実に気がついたのです。

それは、

「力を抜いた感覚」

だと思っていたものが実は、

「力が入っている感覚」

だったことです。

さらにはこの「力を抜いた感覚」だと思っていたものは、

「自分のカラダがここにある感覚」

とも同じものでした。

つまり、せっかく力を抜いても、

「力がちゃんと抜けたかな?」と思ってその確認をしようとすれば、

すでに余計な力が入ってしまう。

これでは力を抜いたかどうかの確認が出来ません。

あたかも量子論における「シュレディンガーの猫」のように、

確認しようとした時点で状態が変わってしまうのです。

 

相手がいることの重要性

ということは、脱力のトレーニングにおいては、

「確認してはいけない」のでしょうか?

それでは自分が上達したかどうかを判断できないですよね。

そこで、「相手」が必要になってくるのです。

今の自分の感覚が、力が抜けたかどうかの確認の基準にならないのであれば、

その基準を自分以外のものに求めるというわけです。

自分はただ、「脱力」そのものに意識を向け続ける。

それが正しいかどうかは、相手が判断する。

その為の相対トレーニングであり、そこに「武術」という様式の大きな意味があるのです。

 

脱力そのものに意識を向け続ける

今の感覚に頼っているうちは、

負荷がかかった状態で本当に力を抜くことができません。

負荷がある状態と無い状態では感覚が違って当然で、

同じように抜けた感覚にはなり得ないのですから。

もちろんトレーニングを続けていくうちに、

今の感覚に頼らずに力を抜くことが分かってきます。

例えば手を動かすときに「ちゃんと動いたかな?」とは確認しないですよね。

同じように力を抜くことについても、

それそのものがどういうものかが分かってくる(はず)なのです。

そうなればまた違った段階のトレーニングがあるのでしょうが、

まずは脱力そのものに意識を向け続ける。

そこから始めるしかないと思うのです。