デング熱にも怯まずに…

蚊にご注意

 

9月13,14,15日は、

武颯塾東京本部での合宿修練に参加してきました。

デング熱による代々木公園の封鎖などがニュースで大々的に報道されていたこともあり、

一応虫よけスプレーを持って行ったのですが、道場にも準備済み。

さらに電気式の蚊取り器も置いてあったので、

蚊を見ること自体無く、安心して3日間を過ごせました。

ただ、いつもは公園で行っていた朝の気功修練が、

室内での修練に変わったのが少し残念。

気功修練をするとしないとでは、

不思議とその後の朝ごはんの味が全然違うのです。

人の味覚というものは、その時の状態次第で簡単に変わるものなのですね。

ご飯があまり美味しくないという方には、

ぜひ気功の修練をおススメします。

驚くほどご飯が美味しく食べられますよ♪

 

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今回の合宿における一番の収穫

いつもとは若干メニューの変わった今回の合宿ですが、

「徹底的に力を抜いて脱力流体をつくる」

というテーマは全くもって変わりありません。

特に初日の4時間は、

「座った状態で四つ這いの相手を様々に崩す」

という修練をベースとして、

「脱力による重みを相手に伝える」

ことをひたすら繰り返し行いました。

私は師範のご厚意により師範代と組ませていただいたので、

いつにも増して学ぶことが多かったです。

関係性の取り方や抜きの速度なども印象的でしたが、

「脱力によるリアルな力を、何度も繰り返し受けられたこと」

が、一番の収穫だと感じています。

それは自分よりも上手の技を受け続けることで、

「力を抜けば力が出る」

ことをより明確に理解できたからです。

 

脱力による力を確信するために

脱力修練において最も難しいと感じるのは、

このことを本当には信じられない点です。

師範も合宿中に仰っていましたが、

「力を抜くと弱くなる」

と思いながら力を抜けば、当然弱くなります。

それは、

「弱くなるように力を抜いてしまう」

から。

「力が出るように力を抜く」

ことで初めて、

「力を抜いて力を出す」

ことができるのです。

その為に必要なことは、

「力を抜いたら力が出たという経験」

と、

「力を抜いて出た力を受ける経験」

の2つです。

この2つの経験の質と量の積み重ねが、

脱力による力の存在を確信させてくれるのです。

 

来月も東京に行きます

合宿2日目と3日目も、

多くの人と組みを変えながら脱力修練に励みました。

特に、新しく入門した若い人と組むと、

ガッチリと固めて持ってくれるので良い修練になります。

こういう普段組めない人たちと修練できるのが合宿の良いところですね。

来月にも東京道場でのイベントに参加するのですが、

帰って間もないにもかかわらず楽しみです。

 

力を抜いたら立てないのか?

 

先日、修練仲間の話を聞いて印象に残ったことがある。

「ストレッチ教室に毎回来てくれる人がいるのだけれど、

『力を抜いたら立てないですよね』というところから話が進まない」

これは脱力を学ぶ上で、避けては通れない道だと思う。

この「力を抜いたら立てない」というコメントには、

脱力に対する勘違いが象徴的に表れている。

そこで今回は、「脱力」を実際に使う上で必要となる、

基本的な考え方について書いていきたい。

 

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脱力における大きな勘違いに気づく

「力を抜いたら立てない」と思っている人は、

力を抜くことを「立つことをやめること」だと勘違いしている。

だから、力を抜くと立っていられない。

それは立つことをやめたのだから当たり前。

立つことをやめたのに立っていられたら、

むしろ座る時や寝るときに困ってしまう。

「立っている状態で力を抜くことは、

立つことをやめることではない。」

ほとんどの人は、立つという「行為」と「力み」とが、

切り分けられないものだと勘違いしている。

脱力を学ぶ上で、これを理解することが1つ目の大きな壁になるだろうし、

おそらくストレッチ教室の生徒さんもここで躓いていると思う。

 

力が抜けた感覚を知る

1つ目の壁である「行為と力みの同一化」という勘違いを理解しても、

おそらくまだ「力を抜いて立つ」ことは出来ないと思う。

それは「力の抜き方」が分からないからだ。

そこで、「上げた腕を落とす」という、

比較的簡単にわかる方法で力を抜くことから脱力修練は始まる。

リンゴが木から落ちるように腕にも重力が働いているので、

何も考えずに力を抜けば上げた腕は落ちる。

腕が落ちたという結果を手掛かりにして、

力を抜くという感覚を掴むのがこの修練の目的。

そして同じことを脚で行えば、

脚の力が抜けた感覚(のようなもの)が身について来るだろう。

 

2つめの勘違いに気づく

ところがこの「脚の力が抜けた感覚(のようなもの)」だけではまだ、

「力を抜いて立つ」ことが出来ない場合が多い。

少なくとも私の場合はそうだ。

そこで、「力を抜けばいつも同じ感覚になるはず」

というもう一つの勘違いを正す必要がある。

ただ上げた腕や脚を落とすという場合には、

自分自身の緊張以外、基本的には何の抵抗もない。

ところが立っている状態においては、

自分の体重分の力が地面から足の裏に加わっている。

上げた腕や脚の力を抜くのと、

立っている状態で脚の力を抜くのとでは、

違う感覚を感じて当たり前なのだ。

それにも関わらず私自身は、

「脚の力が抜けた時の感覚を求めながら、立っている状態で力を抜く」

ということを長い間行っていた。

だから、脚の力が抜けなかった。

 

力を抜いて立つために

以上のことから言えるのは、

立っている状態で脚の力を抜くためには、

「足の裏に感じる地面からの力」を受け入れなくてはいけない。

「抵抗が無い時に力が抜けた感覚」を頼りにしていては、

いつまでたってもそれを感じることは出来ない。

なぜなら立っている以上、力は常に加わっているのだから。

「力が抜けた感覚」ではなく、「力を抜く感覚」を知る。

これが、「力を抜いて立つ」ために必要なことなのだ。

そしてそれが理解できれば、

「上げた腕や脚を落とす」という恐ろしく地味な修練が、

とんでもなく奥深いものへと一変する。

「落ちた後」や「落ちている間」もさることながら、

「落ち始める刹那」の感覚を捉えることがその目的へと変化するから。

私自身はこの変化こそが脱力修練のおもしろさだと思うのだけど、

いかがだろうか?

 

 

脱力そのものに意識を向け続ける

 

最近、テレビや新聞などで「脱力」という言葉を目にすることが増えてきました。

先日はNHKの番組内で、塩谷哲さんというピアニスト・作曲家の方が、

ピアノにおける脱力の必要性を伝えていました。

オランウータンやハトを例に出した面白いものでした。

さらにもう少し前になりますが、朝日新聞の記事にオーレリー=デュポンという、

バレエのオペラ座のエトワールの方へのインタビューが載っていました。

そこで彼女は振付師の勅使河原三郎さんから、

「全身の力を抜く事と身体中の関節を意識すること」

を要求されていて、それがとても難しいと言っていました。

このように様々な分野のトップの方が「脱力」について語ることで、

その効果や必要性がより一般的に認知されることは嬉しい限りです。

しかもそれが、スポーツや武道に限らず芸術方面にも役立つというのが、

脱力の魅力の一つだと思います。

 

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脱力トレーニングは感覚のトレーニング

そんな「脱力」を学んで行く上で難しいと感じるのが、

「自分の感覚がアテにならない」

ということです。

師範からはたびたび、

「脱力修練は感覚のトレーニング」

であると言われます。

感覚器官としてのカラダが感じていることを、

アタマが正しく認知できるようになることが重要なのです。

ところがほとんどの場合、アタマは自分勝手な解釈をしてしまいます。

それをやめてフラットな状態で感覚をとらえる。

それが脱力のトレーニングにおいて重要なのです。

 

陥りやすい勘違い

自分勝手な解釈の例の一つして私自身のことを挙げましょう。

脱力トレーニングをしていると、「力を抜いた感覚」が分かってきます。

肩の力を抜く前と抜いた後の、感覚の違い。

「抜く前がこんな感じで、抜いたらこんな感じになった。

だから、力を抜いた感覚というのはコレなんだ。」

と思って、「力を抜いた感覚」に合わせていく。

それが「脱力」だと思っていました。

だから、力を抜いたらすぐに、

「力がちゃんと抜けているかな?」と思って、

その感覚が感じられるかどうかを確認していたのです。

そして、それが「感覚のトレーニング」だとも考えていました。

 

脱力は確認不能?

ところが最近、愕然とする事実に気がついたのです。

それは、

「力を抜いた感覚」

だと思っていたものが実は、

「力が入っている感覚」

だったことです。

さらにはこの「力を抜いた感覚」だと思っていたものは、

「自分のカラダがここにある感覚」

とも同じものでした。

つまり、せっかく力を抜いても、

「力がちゃんと抜けたかな?」と思ってその確認をしようとすれば、

すでに余計な力が入ってしまう。

これでは力を抜いたかどうかの確認が出来ません。

あたかも量子論における「シュレディンガーの猫」のように、

確認しようとした時点で状態が変わってしまうのです。

 

相手がいることの重要性

ということは、脱力のトレーニングにおいては、

「確認してはいけない」のでしょうか?

それでは自分が上達したかどうかを判断できないですよね。

そこで、「相手」が必要になってくるのです。

今の自分の感覚が、力が抜けたかどうかの確認の基準にならないのであれば、

その基準を自分以外のものに求めるというわけです。

自分はただ、「脱力」そのものに意識を向け続ける。

それが正しいかどうかは、相手が判断する。

その為の相対トレーニングであり、そこに「武術」という様式の大きな意味があるのです。

 

脱力そのものに意識を向け続ける

今の感覚に頼っているうちは、

負荷がかかった状態で本当に力を抜くことができません。

負荷がある状態と無い状態では感覚が違って当然で、

同じように抜けた感覚にはなり得ないのですから。

もちろんトレーニングを続けていくうちに、

今の感覚に頼らずに力を抜くことが分かってきます。

例えば手を動かすときに「ちゃんと動いたかな?」とは確認しないですよね。

同じように力を抜くことについても、

それそのものがどういうものかが分かってくる(はず)なのです。

そうなればまた違った段階のトレーニングがあるのでしょうが、

まずは脱力そのものに意識を向け続ける。

そこから始めるしかないと思うのです。

 

 

歯医者さんでリラックスするために

 

今朝は歯医者さんに行ってきた。

左下の奥歯の詰め物が割れていたようで、

何かが挟まると痛みを感じていたから。

幸い虫歯もほとんどなく、治療は詰め物の入れ替えだけで簡単に済んだ。

終わった今は、とてもいい気分。

 

歯医者さんに行くのがなんとなく憂鬱だというのは、私だけではないと思う。

歯を削ったり唾を吸い込んだりする機械の音を聴くだけでも、なんだか身体がこわばってくる。

歯科衛生士さんの指が口の中で動くのは、なんとなく気持ちいいけれどw

やっぱり気づいたら、背中が汗で湿っていたりする。

「脱力」を修練している身としては、

「まだまだ修練がたりないなぁ」

なんてため息をつきたくなるところ。

 

けれども。

 

「緊張してはいけない」というこの気持ちこそが、

リラックスすることを邪魔している、と気づいた。

いや、もう少し正確に言えば、

「緊張しているかどうか」という自分の「状態」にばかり気持ちが向いていることが、

リラックスの邪魔をしているのだ。

 

武颯塾の脱力修練においては、

様々な形で負荷を掛けられた状態で力を抜いていく。

これがヨガや気功などのリラックストレーニングと大きく違うところだ。

これらの静的なトレーニングにおいては多くの場合、

「リラックスしやすい環境」を大切にする。

恵まれた環境をつくり、それによってより深いリラクゼーションを得る。

もちろんそういうやり方も素晴らしい。

ただ武颯塾で求められるリラックスは、「武術」として使えるもの。

「緊張しやすい環境」においていかにリラックスするかがその目的となる。

よほど修練の進んだ人を除けば、程度の差はあっても、

基本的には「緊張している」という状態から力を抜く事が修練だ。

 

ということは。

 

大切なのは、「緊張」「リラックス」という状態そのものではなく、

そこから「リラックスしよう」という目的に気持ちを向けること。

行動として、実際に「力を抜き続ける」ということ。

少なくとも今の私には、それしか出来ることが無い。

そして不思議なことにというか、当然のことにというか、

力を抜き続ければ、いずれリラックスした状態になる。

「緊張しているなぁ、しんどいなぁ」

と思っているよりは確実に楽になる。

歯医者さんでも、組んでいた手をほどいてリラックスできるようになる。

これって、些細なことだけど、大きな変化じゃないかな?

 

ちなみに以前、「南無阿弥陀仏について考える」という記事を書いたことがあるけど、

浄土宗を開いた法然上人は1日に6万回の念仏を唱えたらしい。

良いことがあっても、悪いことがあっても、

その時々の状態に振り回されずに南無阿弥陀仏。

同じように私たちも。

その時々の状態に振り回されずに力を抜き続ける。

1日6万回は無理でも、せめて1万回くらいは出来たら。

きっと歯医者さんでも自分の家のソファぐらいくつろげるだろう。

 

…まだ修練半ばの私としては、

「終わった今は、とてもいい気分」

なのだけれどw