「脱力」によって期待できる効果(その2)

2.今より楽に動くことができる

脱力感覚を身に付けることで、
今より楽に動くことができるようになります。

その理由の一つは「感覚」にあります。

動くことが「楽ではない」という状態を考えてみてください。
ツラかったり、しんどかったりしますよね。

この「ツラい」「しんどい」という「感覚」は、
力みによって生み出されるのです。

例えば、ほこりを払うつもりで、
右手を目の前に挙げてみてください。

そのまま今度は左手を、
とても重たいダンベルを持っているイメージで、
同じように目の前に挙げてください。

どちらの手がしんどいと感じますか?
ほとんどの方が左手ではないでしょうか。

この時の感覚を左右それぞれ、
よく感じてみてください。

左手の方が明らかに力んでいますよね?

これで、力みが「ツラい」「しんどい」感覚につながることを、
理解していただけたと思います。

もちろんこの場合はイメージによって、
普段よりも力んだ状態を作り出したわけです。

しかし、私を含めてほとんどすべての人は、
無意識に力んでしまっているのです。

そしてそれが当たり前になってしまっているので、
より楽に動けるということを忘れているのです。

脱力感覚を身に付ける修練は、
自分が不必要に力んでいるということに気づく修練です。

力んでいることに気づいたら、
やめることができます。

その結果、
今よりも楽に動けるようになるのです。

「脱力」によって期待できる効果(その1)

練気武颯拳においては、

「脱力感覚」

を身に付ける修練を行っていきます。

それによって、
以下のような効果が期待できます。

1.リラックスを得られる

2.今より楽に動くことができる

3.新しい感覚に気づくことができる

なぜ「脱力感覚」を身に付けることでこのような効果が期待できるのか、
その理由をみていきましょう。

1.リラックスを得られる

「リラックス」という言葉で思い浮かぶのは、
どんな状態ですか?

多くの場合、

お風呂に入っている時、
ベッドで横になっている時、
ソファでくつろいでいる時、
家族と過ごしている時、

などが挙げられるのではないでしょうか。

これらをイメージして、
その時に感じられるあたたかい、
落ち着いた感覚。

これが「脱力感覚」の一部です。

「脱力感覚」≒「リラックス」
というわけです。

だから、「脱力感覚」を身に付けると「リラックスする」というのは、
当然と言えば当然の話。

こういってしまうと、
「そんなもの、わざわざ修練する程のものではない」
と言う方もいらっしゃるかもしれません。

これはある意味正しいご指摘なのです。

練気武颯拳の修練は、
「もともと出来ること」を「当たり前にやる」ための修練なのですから。

「脱力感覚」についても、
「もともとあるもの」を「いつでも感じられるようになる」ために修練するのです。

ではもう一度、
「リラックス」している時を思い浮かべてください。

ほとんどの方が、
「座っている」か「寝ている」状態を思い浮かべたのではないでしょうか。

「立っている」状態を思い浮かべた人はかなり少ないと思います。

つまり、「立つ」という姿勢を取っただけで、
「リラックス」することは難しいものになってしまう。

誰でも感覚としては持っているけれども、
条件次第で簡単に忘れてしまうもの、

それが「脱力感覚」なのです。

そこで、練気武颯拳の修練では、
様々な条件の中で力を抜くことを行います。

身体に対する負荷がかかっている状態でも忘れないような、
「脱力感覚」を身に付けるのです。

それは、普段の生活における様々なストレスをリスクのない形で疑似体験しながら、
その最中に「リラックス」することを学んでいるとも言えます。

もちろん一朝一夕に身につくものではありませんが、
修練後は確実に心も体も軽くなります。

そして、回数を重ねるほどに、
「脱力感覚」は持続するようになります。

日々の生活におけるストレスの影響を最小限にとどめる。

さらに、出来る限りすばやく「リラックス」した状態に戻る。

これが「脱力感覚」を修練することで期待できる効果の一つ目です。

自分を客観視する(練気武颯拳を修練することで得られるもの)

つまり、「力み」を取り去る「脱力修練」は、
「前提」や「当たり前」、「常識」を取り去る修練なのです。

そのために、自分自身に対する注意観察力を磨いていく。

それはすなわち、
「自分を客観視する」ということ。

様々な刺激・情報に対して、
自分はどのような反応を選択しているのか。

自覚の有無にかかわらず常時行われているこれら無数の選択を認識し、
その傾向を把握すること。

これこそが、「今の自分を変える」ための重要なカギなのです。

「今の自分」とは、
「今までの選択の結果」です。

そこには選択の「傾向」があり、
その「傾向」どおりの選択をすると「自分らしい」と感じる。

ということは、その「傾向」を認識して、
そこから外れた選択をするならば…?

そう、「自分を変える」ことができるのです。

話が長くなりすぎたので纏めます。

武颯拳においては、「脱力」を修練します。

それは「前提」や「常識」、
「当たり前」を変えるということです。

なぜなら、「力み」は当たり前過ぎて気付けないものだから。

そのために、自分に対する注意観察力を磨いていきます。

武術という相手と向き合う関係の中で、
自分を客観視することを学んでいくのです。

その過程においては、様々な気づきや発見があります。

普段の何気ない仕草や習慣の背景が見えてきたりします。

それは好奇心を刺激する場合が多いのですが、
時には痛みとして感じられることもあるかも知れません。

でも、全く痛みを感じないということは、
本質は何も変わっていないということ。

痛みこそが、変化の証なのです。

だから、恐れる必要はありません。

痛みや変化そのものに心を奪われることなく、
ただ、自分を注意深く観察し続ける。

それが「脱力」の修練であり、
「自分を変える」ことだと思います。

注意観察力を磨く(練気武颯拳を修練することで得られるもの)

実は、武颯拳の修練においては、
「技の練習」をほとんど行いません。

武術の修練で「技の練習」をしないってどういうこと!?

と、多くの方は不思議に思われるかもしれません。

ですが、今の私やあなたが技の練習をしても、
それは「新しい技を今の自分に付け加えている」だけなのです。

それでは「前提」は何も変わりありません。

繰り返しになりますが、
武颯拳の修練は「前提」を変えるためのものなのです。

それは言い換えると、
「当たり前」や「常識」を変える修練だということです。

「当たり前」や「常識」は、それが当たり前であるがために、
変えること以前に認識することが難しい。

日常生活において、
空気や重力を特別に認識することはありません。

なぜならそれらは、
生まれた時からそこに在るものだから。

同じように「力み」も、
自我の発達と共に当たり前にあるものなのです。

だから、それを認識して取り去るためには、
相当な注意観察力が必要になります。

一般的な技の練習におけるスピードや複雑性の中でその作業を行うのは、
至難であると言えます。

ですから武颯拳においては、
静止した状態や単純な動きの修練が多くなります。

初めて見た方は、
あまりにも地味に見えて驚かれるかもしれません。

ですが、こういった地味な修練だからこそ、
自分の身体に意識を向ける続けることができるのです。

そうして自分の身体に対する注意観察力を磨くことが、
武颯拳の修練の第一歩だと言えます。

この研ぎ澄まされた注意観察力によって、
普段は当たり前すぎて気付けない「力み」を認識し、
取り去ってゆくのです。

(以下、次回へ右矢印

前提を変える(練気武颯拳を修練することで得られるもの)

今日からは、ホームページ更新準備を兼ねて、
「練気武颯拳を修練することで得られるもの、期待できる効果」
について、私が思うところを書いていきます。

「今、自分を、変える。」

「その為の修練をする仲間と出会うことができる。」

それこそが、
練気武颯拳(以下、武颯拳)をすることであなたが得られる最大のメリットです。

ただ、そうは言っても、武颯拳を修練することで、
「なぜ」「どのように」自分を変えることが出来るのかがわからないと、
納得して修練に取り組むことが出来ません。

というわけで、武颯拳の修練が、
「今の自分を変える」理由についてお伝えしたいと思います。

武颯拳の修練における最大の特徴は、「脱力」にあります。

「武颯拳では何を修練しているのですか?」と訊かれたら、
即座に「脱力です。」と答えられます。

もちろん、一般的な武術・武道やスポーツの指導においても、
「脱力」の重要性は説かれています。

でもそれは、「上手く技を掛ける」とか、「良いプレーをする」という為に、
「筋力を効果的に使う」ことを目的とした「脱力」が多いように見受けられます。

「何かをうまくやる」為に「力を抜く」というわけです。

ところが、想像以上にこれが難しい。

中途半端に力を抜こうとすると、ほとんどの場合、
かえって上手くいきません。

今の私たちにとって、「力を抜いて何かをする」ことは、
「力を入れて何かをする」ことよりも断然難しいのです。

だから、結果の分かりやすい「筋力」に頼ってしまう。

そして、力を抜いた技やプレーは、
「才能」の一言で片付けられてしまうのです。

これらは全て、「今の自分が何かをする」という前提に立った話です。

「自分には才能がない。だから筋力で補おう。」というわけです。

言い方を変えれば、
「出来ないことを、何かを付け加えることで出来るようにする」
発想だと言えます。

武颯拳は、その前提を変えるのです。

「もともと出来ることを、今の自分が力みという形で邪魔をしている。」
という前提へと。

だから、
「その力みを取り去れば、本来誰もが持っている合理的な力を使うことが出来る。」
というわけです。

では、どうすれば力みを取り去り、「脱力」することが出来るのでしょう?

(以下、次回へ右矢印

「脱力」が「自分」と「世界」についての認識を変える

ここまでの記事において、
「力み感覚」がいかに根深いものであるかを考えてきました。

自分についての「実感」と、
世界についての「現実感」。

これらを形作る重要な要素として、
「力み感覚」があると考えられます。

言い方を変えると、
「力み感覚」があるから今の自分や今の環境があるわけです。

そう考えると、
「肩の力を抜く」「リラックスする」

ということが、
口で言うほどに簡単ではないことが理解できます。

ほとんどの人は、
今の自分や今いる環境を変えたくはないはずですから。

だから、現状に危機感を感じていない人にとっては、
脱力修練に取り組むことは難しいと思います。

インスタントに身につかないということもありますが、
そもそも必要としていないのです。

「脱力が出来たからと言ってどうなるの?」
というのが正直な感想だと思います。

でも、

「現状に危機感を感じている」
「今の自分をどうしても変えたい」

というごく少数の人たちにとっては、
脱力修練ほど役に立つものはないと断言できます。

なぜなら「力み感覚」が、
「自分に対する実感」と「世界に対する現実感」を感じさせているということは、

「脱力」が「自分」と「世界」についての認識を変えるための、
最も直接的なアプローチになるからです。

…とはいえ残念ながら私自身は、
本当に脱力した状態というものを知りません。

ですから、
「脱力したらこんな良いことがありますよ」
ということを正確にはお伝えできません。

ただ、師範とお会いするたびに感じるのは、
とても楽で楽しそうだということ。

様々な人や出来事に対して身構えたり自分を取り繕ったりすることがなく、
とても自然な感じだということ。

そんな自分になりたくて、
私は修練を続けています。

脱力修練、
一緒にしませんか?

「身体感覚」は「視覚」や「聴覚」に優先される

前回の記事では、
「確固たる自分でいるための魔法の感覚」として、
「力み感覚」があると述べました。

自分の意志でいつでも感じられる「力み感覚」は、
自分についての「実感」と、
世界についての「現実感」を与えてくれるのです。

「現実感」については、
テーマパークのアトラクションを例に考えるとわかりやすいです。

USJなどのテーマパークには、
3D映像と座席の振動を利用したバーチャルアトラクションがあります。

私自身、
体験するまでは「子供だまし」だと思っていました。

が、これが意外と楽しめます。

3D映像に合わせて座席がガタガタと揺れているだけ、
ということを頭では理解しているのです。

でも、身体はそのようには反応しません。

目で見て、耳で聴いて、さらに揺れたり傾いたりすると、
それは「現実(的)である」と受け止めてしまうのです。

ここで「現実(的)」と表現したのには理由があります。

それは、「現実」とは、
幾つかの感覚の組み合わせによって作られるものだからです。

この場合は視覚・聴覚・身体感覚(触圧覚・位置覚・平衡感覚など)からの情報により、
「現実(的)」であると認識しています。

視覚・聴覚刺激だけの映画やテレビと比べると断然「現実(的)」ですが、
さらに状況に応じた味覚や嗅覚が刺激された場合と比べるとどうでしょう?

やはり、
「現実」としての認識度合は下がるでしょう。

つまりここでは、
「同時により多くの種類の感覚からの情報を得られるほど、現実度が上がる」
ということが言えると思います。

ですがこれだけでは、
「力み感覚」が「現実感」を作るという説明にはなっていません。

というわけで、
もう一度バーチャルアトラクションの話に戻ります。

テレビや映画よりもバーチャルアトラクションの方が現実感がある、
ということには異存がないと思います。

「視覚+聴覚」よりも、
「視覚+聴覚+身体感覚」の方がより現実(的)だからです。

では、
「視覚+聴覚」と「聴覚+身体感覚」ではどうでしょう?

この比較は簡単にできます。

「触感が全くないキス」と「目を瞑ってのキス」、
どちらを選ぶかという話です。

別に、「キス」を「セックス」と置き換えても構いません。
おそらくほとんどの人が後者を選ぶのではないでしょうか。

同様に「触感が全くないキス」と「耳を塞いでのキス」であれば、
やはり耳を塞いだ方が良いですよね?

ということは、
「現実感」の度合いにおいて、

『「身体感覚」は「視覚」や「聴覚」に優先される』

のです。

そして、
このもっとも現実(的)である「身体感覚」をお手軽に感じられるのが、

「力み感覚」

だというわけです。

(以下、次回へ右矢印