脱力トレーニング 介護リスクと重心移動

 

ここ2、3年、「介護」を理由として、

修練生が来れなくなることが何回かあった。

それは親の介護もあれば、

介護業界への就職もある。

介護が社会的課題として、

ニュースで取り上げられるようになって随分経つけど、

それが確かな実感として感じられる今日この頃。

 

 

武颯塾では師範が介護ビジネスに携わることもあり、

修練の中で介護的な動作を行うことがある。

それは相手の重心を的確にコントロールして、

お互いに負担のない介助動作が出来るような修練。

相手を倒す動作と支える動作を、

同じ理屈の表と裏として学ぶ。

武術を現代に役立てる、

とても有効なアプローチだと思う。

 

 

ただ、社会的課題として考えると、

「どうやって効果的に介護するか」よりも、

「どうやって介護の必要をなくすか」が重要だし、

武術が本来役立てるのもそこだと思っている。

重力を基準とした身体感覚を学べば、

介護が必要な身体状況になる確率は大きく下がる。

 

介護が必要になる大きな理由の1つは、

日常動作が自力ではできなくなること。

起き上がる。

立ち上がる。

腰を下ろして座る。

歩く。

階段を上り下りする。

こういった日常生活行う上で不可欠な動作に支障が出ると、

人の手を借りる必要がうまれる。

そして一般的には筋力低下が動作の支障の原因だとして、

筋力トレーニングがその解決策になっている。

もちろんそれが間違っているとは言わない。

確かに日常動作を支える筋力は必要。

ただ、肝心な部分が抜け落ちていると思う。

 

例えばスクワット。

ちゃんとトレーニングしたことがない人はそれを、

「膝を曲げて腰を落とし、

膝を伸ばして立ち上がる、

太腿の筋力をつける運動」

だと思ってるんじゃないかな。

だから「どうやって立ち上がるか」に意識が向く。

でも私が見ていて感じるのは、

「腰の落とし方がまずい」こと。

重心が足裏に真っ直ぐに乗らない形で、

股関節との連携もなく、

ただ膝を曲げようとする。

腰を落とすためのカラダの条件が整わないまま、

自分勝手に膝を曲げて腰を落とそうとするから、

関節に余計な負担がかかってしまう。

 

だからまずトレーニングすべきは、

どうやって重心を足裏に乗せるか。

重心が足裏に乗ったまま腰を落とせるか。

それができれば、

実は立ち上がることにそれほど力はいらない。

重心が足裏に真っ直ぐ乗っていれば、

地面と重心の間で上下の力のつりあいが取れている。

すると少しの力を加えるだけで、

カラダは立ち上がろうと動き出してくれる。

 

例として分かりやすいからスクワットを挙げたけれど、

起き上がったり歩いたり、

階段を上り下りするのも同じ。

自分の体を支えている部分と重心との関係を、

力学的に無理のない状況に整える。

そんなトレーニングが、

介護リスクを減らすためには必要だと思う。

 

 

脱力トレーニング 重心移動と夢の話

 

※シモネタ注意

 

 

 

性交中にペニスが根元から、ちぎれた。

気づくと新しいものが生えていた。

でも、ちぎれたそれもなぜか気持ちいい。

なんていう夢を見た。

中学生かw

 

 

今回のテーマは重心移動。

反動をつけないで動くトレーニング。

分かりやすくいうと、

「よっこいしょ」をしないで動く練習。

普段の生活を思い返してみてほしい。

寝ていて起き上がる時、

座っていて立ち上がる時、

声に出さないまでも、

「よっこいしょ」って動き出してない?

 

 

世間的には多分、

掛け声をかけて動き出した方がいいと思われてる。

確かにカラダに対してスイッチを入れる効果が、

多少なりともあるかもしれない。

でももし武術や対人競技をやってるなら、

この習慣は考え直した方がいい。

なぜなら反動が必要な動き方とはつまり、

次の位置や姿勢へ移る必然性がない動き方だから。

 

反動をつけるためにカラダに瞬間的な力を入れて、

壁や地面といった支持面を突き放す。

その勢いで位置や姿勢を変えると、

変化の最中に重心のコントロールを手放してしまう。

重心を支持面が支えることが出来なくなってしまう。

これは対人競技において弱点以外の何物でもない。

力が発生するタイミングと方向が分かりやすいから。

もちろん実際にはフェイントを入れて補完するけど、

それが弱点であることに変わりはない。

 

対して反動を使わない動きは、

重心移動がカラダの位置や姿勢を変化させる。

それはつまり、

刻々と変わる位置や姿勢において、

最適な重心位置であり続けるということ。

動画では座った状態から膝立ちへと移行している。

股関節の脱力で重心を前方へリードし、

その結果としてカラダが勝手に膝立ちになる。

反動で立ち上がるのと違い、

あぐらから膝立ちの間のどの局面でも、

楽に静止することができる。

常に自分を支える地面からの抗力が使えると同時に、

いつでも方向転換できる。

これは対人競技において大きなアドバンテージだ。

 

ただ残念ながら私達は、

反動を使った動きに慣れ親しみすぎている。

そっちの方が実感があって心地よいのだ。

だから意識しないとつい、

「よっこいしょ」とやってしまう。

でも、上達したければそれは捨てた方がいい。

ちぎれたペニスがいくら気持ち良くても、

新しく生えたものを使うべきだ。

 

脱力トレーニング 相手に触れて分かること

 

私はフツーの会話が苦手だ。

別に会話が成立しないというわけじゃない。

ただ、エネルギー効率が悪いと感じる。

様々な選択肢が頭に浮かぶ中で、

その時々に応じた言葉を話す。

ただそれだけのことに、

相当の労力が掛かってしまう。

ただ、修練や治療の場では違う。

もちろん最適と思える言葉を選んで話すけど、

それが比較的自然な流れでできる。

この違いは何なのか。

 

 

もちろん立場が変わるのは大きな違いだ。

普段の会話と違い、

修練や治療の相手は私の話を聞きに来ている。

話しやすいのは当然かもしれない。

ただ、例えば治療が終わった後に少し話すと、

その時はもう治療中の感覚では話せない。

つまり私にとってはもう1つ、

話しやすさを感じるための大きな要素がある。

それは、カラダが相手に触れているかどうか。

私の治療や修練ではほとんどの時間、

何らかの形で相手に触れている。

そのことが会話の大きな助けとなっている。

 

 

では、相手に触れることで何が変わるのか。

それは一般的な言葉にすると「一体感」とか、

「共感」みたいなものだと思う。

ただ、私が感じる違いはもっと実際的で、

それは「手がかり」とか「根拠」みたいなものだ。

相手に触れている感覚が私にとって、

会話の際に文字通りの意味での手がかりとなる。

その感覚を通して得られる情報が、

私が言葉を選択して発するための根拠になる。

ところが身体的接触が無くなると、

私はその手がかりを失ってしまう。

乏しい情報から選ばれた言葉に、

確信が持てないのだ。

だから、意識的な意味付けが必要になり、

余計な労力が掛かっていると感じる。

 

動画では、相手に握られた手から、

相手が体重を乗せているマットまで意識を向ける。

すると、マットが相手を支えている力を感じられる。

同時に、マットが自分を支えている力も感じてみる。

それらの力に沿う形で手を動かしてあげれば、

より楽に相手を動かせる。

 

本来の武術としては当然、

離れた相手の情報を感じ取りたい。

会話が苦手なんて言ってる場合じゃないw

ただ、触れた相手の情報さえ正確に読み取れないなら、

離れた相手のことが分かるはずもない。

そこでまずはこのようなトレーニングで、

触れた相手に意識を向けることを学ぶ。

もちろんこれだけでは足りないけど、

間違いなく必要なことだと思う。

 

 

脱力で感じるパラダイムシフト⁉︎

 

インドの山奥で10日間、

誰とも一言も話す事なく、

1日中座禅をしていた経験のある修練生によると、

「朝から晩まで座り続けていると、

腕とか脚がスーッと消えて無くなっていく」らしい。

そしてその消失感は、

自分が無くなるという不安とは正反対の、

安心感として感じられるそうだ。

 

 

私は腕や脚がなくなった感覚の経験は無いけど、

彼が言っていることは理解できる。

確かに脱力が上手くできている時、

カラダは普段よりも透き通ったものとして感じられる。

なんとなく、風通しが良い感じ。

これは脱力トレーニングの大きな特長だと思う。

一般的な筋力トレーニングは逆に、

自分のカラダがここにあるという実感を強くする。

最近、強い負荷の中での脱力に取り組んでいると、

その違いがよりハッキリと感じられる。

どうしても力が入ってしまう部分が、

これでもかと存在を主張してくるからw

 

 

この筋収縮から生じる存在感になれると、

力を抜くのが怖くなる。

確かにその存在感は希薄になるから。

それは多くの場合、

「私がここにいる」

という実感とも繋がっているから、

怖くて当然だと思う。

しかし正しく力を抜く事ができれば、

薄くなった筋収縮の存在感の代わりに、

別の感覚を感じるようになる。

 

例えば動画の場合、

上の2人の重さに合わせて力を抜くと、

内臓が潰れそうなツライことになるw

けれども自分の重心が、

マットに触れている部分全体で支えられるように、

意識して力を抜いてみる。

すると今まで感じられなかった、

「マットが上の2人を支えている力」

を発見できる。

動画ではこの力をコントロールすることで、

上の2人を見た目より楽にひっくり返している。

 

この時に面白いと思うのは、

前の記事にも書いたように、

マットが上の2人を支えていると気付いた途端、

乗られている負担がフッと軽くなること。

そしてその変化は乗っている2人にも起きる。

「動けない」から「動ける」へのパラダイムシフトが、

自分と相手の双方に起こっている。

つまり冒頭に書いたような安心感というのは、

ただ自分の気持ちが楽になったということではなく、

周りの環境も含めた現実がシフトした結果なんじゃないか。

そんなことを物理的側面から感じられるのも、

相手がいる武術の面白さだと思う。

 

 

身体感覚の変化による現実の再構築

 

ココロとカラダとコトバの研究をしてる先生が、

自我はTVのようなものだと言ってた。

「私の現実」を映し出すTV。

実際のTVのように、

本来はチャンネルを変えることで、

好きな番組を選んで見ることができる。

にもかかわらず気がつけば、

いつも同じチャンネルばかりを見てしまっている。

いや、普通はそのことに気づくこともほとんどない。

 

 

自我はTVのようなもの。

人が世界を電気信号に変換して認識している以上、

この例えは仕組みとして正しい。

にもかかわらず、

この例えの正しさを実感として感じることは難しい。

自分の身に起こることを、

TVを見る気分で客観的に扱うことは、

そうそう出来ない。

それが不愉快に感じるものであればなおさら。

 

 

TV番組とリアルワールドの違い。

その最大のものは、

「カラダがあるかどうか」

だと言える。

もう少し詳しく言えば、

「身体感覚という情報の差」

ということになる。

TVの旅行番組を見ても、

実際に自分が旅先にいるとは思わない。

視覚と聴覚の情報だけでは、

人はそれをリアルな現実とは感じないから。

でももしそこに旅先と同じ風の匂いや肌触り、

砂利や石畳を踏みしめる感覚があればどうだろう?

 

もちろん実際にはTVだと、

周りの視覚などとの整合性から、

現実でないとの判断はできる。

ただ、その時点における「現実っぽさ」は、

ただのTVより確実に強くなる。

そして電気信号だけで世界に触れている私達は、

「現実っぽさ」の強度でしか、

現実と非現実を分けられない。

つまり身体感覚という情報が変われば、

その分だけ「私の現実」を変えることになる。

TVのチャンネルを変えるように。

 

動画では、腕と脚を2人に押さえられている。

普通に動かそうとしても簡単には動かない。

それは、

「強い力で押さえられているから動けない」

という「現実」を作り出しているから。

そこで自分の重心とマットからの抗力、

という身体感覚を知覚してみると、

「押さえられているけど動ける」

ことが「動く前」に分かる。

それはつまり身体感覚が変わった時点で、

「動けない」から「動ける」へと、

「私の現実」が変化しているということ。

ただ寝てる状態で手足を動かす中に、

「身体感覚の変化による現実の再構築」

なんて事が起きていたりする。

 

 

脱力トレーニング 一体感を感じるマッサージ

 

力を抜いて力を出すという脱力トレーニングは、

カラダを使う技術全般に応用出来る。

その中でもとりわけ役立つのが、

マッサージや整体といった、

直接相手のカラダに触れる技術だと思う。

 

 

上手な整体やマッサージの特徴の一つは、

「一体感を感じられる」こと。

施術する側とされる側の力のやり取りが、

スムーズに行われるほどに、

この一体感が大きくなっていく。

すると施術を受ける側は、

安心してカラダを委ねることができるので、

より深いリラックス状態になる。

ではなぜ、脱力トレーニングをすると、

この一体感を感じやすくなるのか。

 

腕立て伏せの記事にも書いたけど、

普通のやり方で腕で相手を押そうとすると、

自分から相手を突き放す運動になってしまう。

だから、せっかくカラダを近づけて、

体重をかけて施術しようとしても、

一体感を感じられることは少ない。

どうしても腕は相手を突き放しているから。

これだと、

「あなたはあなた、わたしはわたし。」

という関係性が変わることはない。

 

それに対して脱力による施術は、

カラダを緩めることで水の塊へと近づけていき、

動きの波を力として相手に伝える。

水滴をイメージしてもらえれば分かるように、

水は何かに触れるとくっつく性質がある。

水滴と水滴が触れ合った瞬間、

一つの大きな水滴に変わるよね。

つまり、カラダが緩んで水に近づくほどに、

触れた相手との境界線は曖昧になる。

「わたしとあなたで一つのもの」

という一体感を感じやすくなる。

 

もちろん、

マッサージや整体を受けに来る人の好みはそれぞれ。

ただ、本当にカラダを緩めたい、

緩めてあげたいのであれば、

脱力トレーニングは大いに役立つと思う。

 

 

 

脱力トレーニング 腕立て伏せの考察

 

最近、筋トレの本を1冊買った。

もちろん、脱力トレーニングのために。

普通は筋力をつけるためにやる運動を、

今の自分はどれだけ力を抜いて出来るか。

そんなところに興味があったのだけれど、

意外な発見もあった。

 

 

本に書かれていたトレーニングは、

大きく分けて6種類。

1.プッシュアップ(腕立て伏せ)

2.スクワット

3.レッグレイズ(脚上げ腹筋)

4.プルアップ(懸垂)

5.リバースプッシュアップ(逆立ち腕立て)

6.ブリッジ

で、今回の話題は腕立て伏せ。

 

 

多くの人は腕立て伏せを、

押す力を鍛える運動だと思ってるんじゃないかな。

より重たいものを動かせるようになったり、

あるいはパンチ力が上がるとか。

もちろん手首・肘・肩の腱や靭帯が鍛えられるので、

衝撃に対する耐久力はアップする。

なのでトレーニングの効果が無いとは言わない。

けれども腕立て伏せを力学的に見れば、

物を押したりパンチを打つのとは、

最も重要な部分で逆の動きをしていることが分かる。

 

腕立て伏せとは腕の力を使って、

床から自分の重心を遠ざける運動だ。

それに対して、

重い物を押したり強いパンチを打つコツは、

自分の重心を対象に近づけていくこと。

つまり、

対象と自分の重心の関係性が、

正反対の運動になっているわけ。

これを正しく理解してトレーニングしないと、

せっかく鍛えたのに弱くなった、

なんてことも起こりうる。

気をつけないとね。

 

 

不利な状況を受け入れる訓練

 

今回のトレーニングも寝技系。

マウントを取られたところからのスタート。

思い返せば少年時代。

友人とケンカになって馬乗りになられると、

すぐに降参していた。

下になった時点で、

もうどうしようもない気持ちになって、

頑張ることを諦めていたんだ。

 

 

別に子供の頃のケンカに限った話ではない。

多分私は、

「不利な状況」そのものを、

受け入れたくないのだ。

有利な状況では調子のいいことを言っても、

不利になった途端に投げ出してしまう。

そんな私にとって武術の修練は、

とてもいいリハビリになっている。

 

 

相手に馬乗りになられるというのは、

間違いなく不利な状況ではある。

慣れていないと、

相当な圧迫感を感じると思う。

とは言え、何もできないわけじゃない。

不利な状況を把握し受け入れ、

正しくトレーニングすれば、

動画のように相手を制することも充分に可能だ。

ちなみにこの動画におけるポイントは、

相手は掴んでいる手首しか抑えられないことだ。

手も肘も肩も胸も抑えられてはいない。

その状況を理解して受け入れれば、

実は全然抑えられていない。

それがカラダの感覚として分かれば、

下から相手をコントロールすることもできる。

 

もちろん普通に生活していたら、

馬乗りで殴られることはそうそう無い。

ただ、こんな圧倒的不利に思える状況でも、

諦めずに戦えるという経験は、

きっと他の場面でも役立つんじゃないか。

私は武術にそんなことを期待している。

 

 

カラダの中心から末端を動かす

 

「不自由って良いですねぇ‼︎」

今日の修練で印象に残った一言。

不自由があるから自由が分かる。

どこかで聞いたような言葉だし、

アタマでは理解できる。

でもそれと、

カラダを通して体感することは、

全く違う話なんだ。

 

 

脱力トレーニングの要点の一つに、

「カラダの中心から末端を動かす」

というものがある。

腕を動かす時に腕を使わず、

脚を動かす時に脚を使わない。

股関節や腹背といったカラダの中心からの動きを、

腕や脚に伝えて動かすのだ。

もちろん口で言うほど簡単ではない。

ほとんどの人にとって、

腕や脚を動かす方が、

股関節や腹背を動かすよりも楽で自由。

トレーニングと分かっていても、

慣れ親しんだ末端からの動きをしてしまう。

そこで役立つのが、

腕や脚を動かさずに動く練習。

敢えて不自由な状況に身を置くわけだ。

 

(写真と動画は以前のものです)

 

修練としては、

前腕や下腿を相手に持ってもらい、

そこを全く動かさないようにカラダを動かす。

ある種、パントマイムのような動きになる。

前腕を固定して動くために肩と肘が、

下腿を固定して動くために膝と股関節が、

それぞれ自由に回転する感覚を学べる。

この修練でさらに重要なのは、

体幹と腕や脚の位置関係を、

「体幹の側から感じ取る」こと。

すると、

「カラダの中心から末端を動かす」

ことが少しずつ分かってくる。

 

このような敢えて腕や脚に制限をかける修練で、

結果的に不自由だった体幹が自由になる。

それを実際に体験すると冒頭のように、

「不自由って良いですねぇ‼︎」

なんて口走っちゃうw

確かに、不自由があるから自由が分かる。

面白いなぁ。

 

「基本」は、それ自体が「成果」。

 

あいまいな記憶を頼りに書くと、

昔、「ドラゴン桜」という作品の中で、

ある勉強の進め方について描かれていたと思う。

それは、

「1日目に教科書の1ページから5ページまで進めたら、

2日目もやっぱり1ページから始めて、

進めるところまで進む」

というもの。

これは勉強に限らず、

学び方全般に当てはまると思う。

 

 

 

「基本が大事」なんて、

今更言われなくても分かってる。

みんなそう言うし、

口に出さなくても態度には出てるw

でも、

「なんで基本が大事なのか?」

を真剣に考えてみたことがあるだろうか。

というわけでここからは、

それについての私の考え。

 

多分多くの人は、

「基本があって応用がある」

と思ってるんじゃないかな。

確かに何かを学ぶ上ではその順番で間違いない。

でも、教える側、いや、研究する側に立てば、

全くの逆だってことがわかる。

 

例えば重力の話。

私たちは、

「重力があるからリンゴが落ちる」

と思ってる。

もちろんその通りなんだけど、

ニュートン先生にとってはそうじゃない。

「リンゴが落ちるから重力がわかる」

という順番。

別に重力に限らず物事はすべて、

まず現象があってそこから理論が導き出される。

技術においても同じで、

様々な技法を正確に把握した上で初めて、

何が基本になっているのかが分かる。

それはつまり、

「基本はそれ自体が成果である」

ってこと。

 

なので、

教科書の最初に書いてあることをより深く、

より正確に理解することが、

実は物事を学ぶ上で最も効率がいい。

 

 

脱力(によって力を出す)という、

普通に生活していればまずやらない、

ある意味特殊なカラダの使い方。

それを学びさらには教える上で、

自分なりに気をつけ工夫しているは、

「できる限り失敗しにくい単純なやり方」

を探して提示すること。

なのでその単純なやり方を確実にできるまで、

徹底的に修練したいし、

して欲しいわけなんだけど…。

 

ちなみに動画の場合、

「抑えられた腕を伸ばせる」

ようになるためには、

「抑えられた肩や胸を自由に動かす」

練習をしっかりやればいいと思う。