【訂正】12/14 武颯塾大阪支部セミナーのご案内

 

12月14日のセミナーについて、開催場所を変更しました。

参加予定の方はご確認をお願いします。

×浪速スポーツセンター ⇒ 〇難波老人憩いの家2階

 

こんにちは、ワタルです。

12/14の日曜日、武颯塾大阪支部におけるセミナー、

武術で開く可能性の扉を開催します。

テーマは前回と好評だった前回と同じく、

「How to 脱力」です。

武颯塾がつくられた約20年前と異なり、

「脱力」という言葉自体は、

一部の武術修練者だけのものではなくなってきています。

力を抜いた方が良いということは、

より一般的に理解されるようになったと感じます。

ですが、理解はできても、それを実践できるかどうかはまた別の話。

とうすればより深く力が抜けるのか。

力が抜けるとどんな感じがするのか。

そういったことは、自分よりも力の抜けた人に触れないと、

残念ながら分かりません。

まだまだ実際に脱力を学ぼうと行動する人は少ないですが、

体験された方みなさんが口を揃えておっしゃるのが、

「触ってみなければ分からなかった」という言葉。

それまで想像していた脱力と実際のそれとの間には、

本当に大きな隔たりがあるのです。

ちなみに武颯塾では普段の修練においても、

単発での参加を受け付けてはいます。

その気になればいつでも、

本物の脱力に触れることは出来ます。

ただ、初めての場所に自分一人だけ、

全くの初心者として参加するのは、

さすがに抵抗感を感じるかもしれません。

けれども今回のセミナーは「一般公開」。

初めての方にも参加しやすいものになっています。

ですからぜひ、この機会に本物の脱力に触れて欲しいと思います。

参加してもらえたらきっと、

「触ってみなければ分からなかった」

と言いたくなりますよ♪

 

武颯塾大阪支部セミナー「武術で開く可能性の扉」

テーマ:「How to 脱力」

講師:茂呂 隆 茂呂 恵子 (武颯塾師範)

日時:2014年12月14日(日) 14:00~16:00 (13:30開場)

場所:難波老人憩いの家 2階

費用:3,000円

 

自分のカラダから手を引く

 

こんにちは、ワタルです。

今日は、「自分のカラダから手を引く」ということについて書きます。

これは「脱力」という修練の本質に連なるものであると同時に、

自分が本来持っている能力に気づくための大きなヒントになる考え方です。

 

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最近の修練において、どういう感覚の時に上手く動けているかを考えると、

より自分で何かをやっている感覚が少ない時だと感じます。

自分で必死に掛けようとした技が掛からないのに、

何気ない感じで動いたら相手が倒れている。

武道をある程度やった人の多くが経験していることでしょう。

いや、特に武道に限った話ではないですよね。

私は中学、高校とサッカーをしていました。

ドリブルでスパッと相手を抜けた時や、

スルーパスをストンと通せた時などは、

今思えば同じような感覚だったと思います。

必死に動いたフェイントがバレバレだったのに、

咄嗟に出した動きには相手が勝手につられてしまう。

そんなことが、ごく稀にあったことを覚えています。

ただ残念なことに当時の私には、

それを再現するための方法論がありませんでした。

 

武颯塾に入門した当時も今も、

私自身には運動のセンスと呼べるようなものはほとんど無いと感じています。

ただ、幸いなことに師範から技を掛けてもらう機会を多く頂いたことで、

「本来の力がどういうものか」

ということを何度も経験できました。

そしてそれを少しずつ理解するにつれて、

「あの時」何が起きていたのかが分かり始めたのです。

私のサッカーの例で言えば、

キーワードになるのは「咄嗟に」とか「勝手に」という部分。

つまり、「自分のアタマで考えてやってない」ということです。

自分の「アタマ」で考えて身体を動かそうとすると、

どうしても不合理な動きになってしまいます。

それは私たちが「力」というものを正しく認識できていないから。

けれども「カラダ」という物理的な存在には、

認識の有無に関わり無く物理法則が働いています。

ですから見えていない「アタマ」が余計な命令を出さなければ、

つまり「咄嗟に」とか「勝手に」動いた時、

「カラダ」はその物理法則に沿った動きを行うのです。

 

だとすれば、普段から「咄嗟に」とか「勝手に」動ければ、

それはかなり合理的な動きに近づけるわけです。

けれどもそれは、

普段の動きの中で狙ってできるものではありません。

思いがけない時に出るからこそ、

「咄嗟に」や「勝手に」という言葉がつくのですから。

そこで、より意図的に自分の関与を減らしていく、

カラダから手を引いていくことが、

上達への近道だと考えられるわけです。

でもコレって、今まで正しいと思ってきたことと、

人によっては間逆だと感じるかもしれません。

普通の運動においては、

より自分のカラダへの関与を増やす方向で練習します。

より強く、より速く、より正確に、より精密に。

そうやってカラダに対する自分の所有権をより確実なものにすることが、

一般的な意味での運動の上達だと思われています。

ところが脱力修練においては、まったく逆のアプローチを取ります。

自分のカラダから手を引くことで、

より「咄嗟に」「勝手に」出た動きに近づいていく。

そこには今まで考えられてきたような、

「センス」や「才能」は必要ありません。

ただ、意図的に力を抜いて動くことと、

その時に何が起きているかを感じることだけが求められているのです。

そういう意味では「運動が苦手だと思っている人」にもぜひ、

真剣に取り組んでみて欲しいと思っています。

 

全日本卓球選手権出場決定!!

 

こんにちは、ワタルです。

昨日、全日本卓球選手権の奈良県予選が行われ、

このブログにも何度か登場しているIさんが出場しました。

そして見事ダブルスで優勝!!

全日本への切符を初めて手に入れたのです。

以下、Iさんからの喜びのメールを転載します。

 

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”太谷さん、全日本ダブルスだけですけど通過しました!

ホンマに嬉しいです!

卓球してきて、修練参加してきてよかったです!

シングルは優勝した人にフルセットで早い段階であたって負けたんですが、

手応えありでした、来年はシングルも通過します!

本当にありがとうございます!”

 

よほど嬉しかったのでしょうね、

「大谷」を「太谷」と変換ミスしています(笑)

 

それはさておき、私も本当に嬉しく思います。

この2年と数カ月の間で身体の使い方も随分と変わってきました。

今週末には全日本社会人選手権もありますし、

来年1月には全日本卓球選手権。

とてもワクワクしますね♪

こうやって楽しみを分けてもらえるのですから、

私も一緒に修練してきて本当に良かったです。

 

Iさん、おめでとうございます!!

 

鞭のように腕を使う:質疑応答

 

こんにちは、ワタルです。

昨日、卓球をされている方からメールで次のような質問がありました。

「手先の意識が強くならないように意識して卓球の練習をしていると、

上腕にも力が入っているように感じました。

腕の力を抜くにあたって、

前腕だけでなく上腕も意識した方が良いですか?」

今回はその回答を書いていきます。

 

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質問をくれた方はもう2年以上修練に参加してくれているので、

おそらく「腰の回転で打つ」の記事を読んで、

その通りに練習をしてくれたのでしょう。

とてもありがたく思います。

余談ではありますが、

11月7日から始まる全日本社会人選手権でも頑張ってほしいです。

 

問題は前提条件の中に

質問としては、

「腕の力を抜くにあたって、上腕も意識した方が良いのか?」

という部分を訊きたいのだと思います。

それについては、

「そうした方が良いです」

という答えになります。

ただ文章の内容からすると問題は、

「手先の意識が強くならないように意識して練習すると、

上腕にも力が入っていると感じる」

という部分にあります。

実際に見ていたわけではないので100%そうだとは言い切れませんが、

手先の意識の仕方が上腕の力みの原因だと考えられるのです。

 

起こりやすい失敗

「腰の回転で打つ」の記事の中で、

「腰で打つ」ためのアドバイスとして、

「手や腕の感覚が強すぎる ⇒ 手や腕の力を抜く」

「身体の中心から動く」

ということを書きました。

普通の運動はどうしても、

手や腕などをそれ自体の筋力で動かそうとしてしまいがちです。

それを矯正するための方法として、

あえて手足を動かさずに身体の中を意識するだけで、

そのときに起きる変化を感じるというやり方もあります。

ただ今回の質問においては、

「卓球の練習をしている」という前提があります。

その状況においては当然、

腕を動かしてラケットを振らなければいけません。

にもかかわらず、手打ちにならないように意識するあまり、

その場で手を「固定」してしまったのでしょう。

それが結果として上腕の力みとして感じられたのだと思います。

同じような経験は私にもあるのでよく分かるのですが、

これは脱力を修練していると陥りやすい失敗の一つなのです。

 

鞭のように腕を使う

言葉で感覚を説明するのが難しいのですが、

「腕の力を抜く」ことと、

「腕が動かない」ことは違います。

武颯拳の基本修練に「鞭手(べんしゅ)」というものがあります。

これは文字通り手や腕を鞭のように扱うというものですが、

まさにこの「鞭」を使う時のことをイメージしてほしいのです。

とは言え実際に使ったことのある人もいないでしょうから、

縄跳びの縄で何かを打つイメージでも結構です。

鞭や縄で何かを打つときに、

物に当たる先端を直接つかんで動かすことはしませんよね。

実際に掴んで動かすのは、手元の持ち手の部分です。

けれども持ち手の動きが先端にどう伝わるかは意識しているはずです。

動かす意識としては持ち手にある。

けれども中間目標(意識)として先端があり、

最終目標(意識)として対象物がある。

鞭や縄を扱う時のこの意識の持ち方を、

腕にも当てはめて欲しいのです。

 

動かす意識と目標意識の分離

先の記事において私が「手や腕の意識が強すぎる」と表現したのは、

動かす意識と目標意識の両方が手や腕にある状態を指しています。

そこから動かす意識だけをより身体の中心へと近づけたいわけです。

その時に目標意識まで外してしまっては、

手先に力を伝えて動かすことが出来なくなってしまいます。

身体の中心を動かして、

中間目標としての手から目標にまで動きと力を伝える。

そのために、手や腕から「動かす意識」を分離させる。

それがこの場合の「腕の力を抜く」ということなのです。

このことを理解した上で、

前腕だけでなく上腕も肩も胸も、

より力を抜いてもらえればと思います。

さらなるレベルアップを期待しています。

 

 

いつまでも山に登れるカラダでいるために(膝の痛みを取る):10/21修練メモ

紅葉

 

こんにちは、ワタルです。

10月も半ばを過ぎて、随分涼しくなってきました。

私が大学での5年間を過ごした京都市右京区でも、

もうすぐ嵐山が紅葉のシーズンを迎えようとしています。

住んでいた時は嵐電(京福電鉄嵐山線)が満員になるのがイヤだったのですが、

今ではこの時期に行くのが一番好きだったりしますw

 

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そんな嵐山も「山」とついているだけあって、

あちこち見て回ろうと思うと結構な坂を上り下りします。

また、嵐山に限らず紅葉を楽しもうと思ったら、

やっぱり「山」に登るのが一番。

カラダを動かした爽快感と空気のおいしさが相まって、

一段と景色がきれいに見えますよね。

昨今のアウトドアブームの影響もあって、

山登りが趣味だという方は多いと思います。

 

山登りに必要なもの

そんな山登りを楽しもうと思ったら、

最低限必要なものがあります。

もちろんリュックや登山靴やゴアテックスのパーカなども必要ですが、

より大切で必要不可欠なもの。

それは「元気な膝」です。

せっかくの紅葉も、おいしい空気やお弁当も、

膝が痛いようでは魅力半減です。

それどころか、「今年はツラいからやめようか」ということにさえなりかねません。

ところが最近、患者さんだけでなく周りの多くの人が、

「膝が痛い」と言うのを耳にします。

それも年配の方だけでなく、30代、40代の方からも。

このことから分かるのは、

「膝の痛みは年齢のせいではない」

ということ。

実際私自身も中学、高校と2回膝に水が溜まった経験があり、

学生時代は膝が気になることが多かったです。

 

膝を痛める人の特徴

では、膝の痛みの原因は一体何なのか?

それはこのブログにおけるメインテーマの一つである、

「カラダの使い方」にあります。

膝を痛める人の動きには、

共通する大きな特徴があります。

それは、「地面を蹴っている」ということ。

例えば駅の階段で、前を上っている人を注意して見て下さい。

ほとんどの人が前かがみになって、

それでいてお尻が後ろに落ちた状態で上っています。

これが地面を蹴って膝を伸ばす動きの典型的なパターンです。

さらにひどくなると、ドタドタと大きな足音が響く。

本人に自覚は無いと思いますが、

これは必死に地面とケンカしている状態なのです。

より正確に言えば、

「自分の体重による地面からの反発を、

膝で受け止めて地面に返そうとしている」

となります。

だから、膝に負担がかかって、痛めるのです。

 

膝を痛めないカラダとは?

膝を痛めないために、あるいは痛めた膝を回復させるために、

まずはこのことをちゃんと理解する必要があります。

「軟骨がすり減った」から、

「半月板が無い」から痛いのではありません。

地面からの衝撃を膝で受け止めるから痛いのです。

下の動画を見てください。

 

 

よくある「卵が割れない」という衝撃吸収材の実験です。

要はこの衝撃吸収材のようなカラダになれば、

膝が痛むことはありません。

ところがほとんどの人は、

「膝の軟骨や半月板”だけ”」が衝撃吸収材だと思っています。

そうではなく、「カラダ全体」が衝撃吸収材となるように扱う。

地面からの反発を吸収してしまうカラダづくりこそが、

膝の痛みを無くす最善の方法なのです。

 

衝撃吸収材としてのカラダ

地面からの衝撃を吸収するために必要なのは、

「カラダがゆるんでいること」です。

先の動画で使われている衝撃吸収材は、

「ゲル」という素材によってつくられています。

この「ゲル」の性質として特徴的なのは、

「固体と液体の中間」であること。

この性質だからこそ衝撃を吸収できるのです。

そして同じように「固体と液体の中間」の性質を持つのが「人体」なのです。

「人体」は60パーセント以上が水分でできています。

「水袋の中に骨が浮かんでいる」というのが「人体」の正しい認識なのです。

ところが筋肉を固めることで、カラダは「固体」としての性質を強く表します。

すると衝撃を吸収できずに受け止めてしまい、

その負荷に耐えられない部分から痛み出します。

だから「カラダをゆるめること」によって、

本来の「固体と液体の中間」である性質を引き出すことが必要なのです。

私自身、膝の前十字靭帯が切れており、半月板も損傷しています。

けれども日常生活で不都合を感じることが無いのは、

「カラダをゆるめる」ということに毎日取り組んでいるからなのです。

 

私たちの取り組み

10/21の武颯塾神戸修練会においては、

「力を吸収する」というテーマで修練を行いました。

相手から押された力を吸収して地面に流したり、

地面からの反発を吸収して相手に流したり。

カラダの力を抜くことで、

自分の中を力が通っていく感覚が感じられるようになります。

この感覚によって地面からの反発を吸収することが上手くなるほどに、

膝だけでなくあらゆる関節の痛みは確実に減っていくことでしょう。

そしてそれは、いつまでも山に登り続けられる、

自由で活動的な暮らしにつながっているのです。

 

腰の回転で打つ:10/14修練メモ

 

こんにちは、ワタルです。

今日は、昨日の修練で質問があった、

「腰の回転で打つ」

ということについて書きます。

 

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出来る人と出来ない人

卓球をしている修練生から、

「先生に『腰の回転を使ったスイングが出来ていない』

と指摘を受けたけれど、どうやったら出来るようになるのか?」

という質問を受けました。

この、「腰の回転で打つ」ということは、

卓球に限らず野球やテニス、ボクシングなど、

腕を使う多くの競技で指導されると思います。

にもかかわらず、それが出来る人と出来ない人がいる。

そしてその違いは「センスの有無」として片づけられる。

どこでもそうだとは言いませんが、

結構ありそうな話ですよね?

「じゃあ、どうしたらいいかちゃんと教えてくれよ!!」

と言いたくなる気持ちは、

少なくとも「出来ない人」だった私にとっては、

まったく他人ごとではありません。

というわけで、ここでは出来る限りわかりやすく、

「腰の回転で打つ」ということについて説明します。

 

「腰の回転で打つ」とは?

「腰の回転で打つ」という言葉には、

実は2つの意味が含まれています。

一つは「腰で打つ」ということであり、

もう一つは「回転で打つ」ということです。

この2つが出来て初めて、

「腰の回転で打つ」ことが出来ます。

つまり腰の回転で打てていない状態とは、

この2つのいずれか、あるいは両方が出来ていないのです。

 

身体の中心から動く

「腰で打つ」の反対は「手打ち」です。

手先や腕の力だけで打つことが不合理で弱い力しか出ないことは、

理屈の上では多くの人が分かっています。

にもかかわらず手打ちになってしまうのには、

次の2つの理由が考えられます。

・手や腕の意識や感覚が強すぎるから

・腰周り(腹背や股関節)の意識が弱いから

いずれも現代社会においてはある意味、

仕方のないことだと言えるかもしれません。

毎日学校や職場で何時間も座りっぱなし。

その間に動かすのは目と手だけ。

そういった生活を何年何十年と続けてきたのですから。

ですが「腰で打つ」ためにはその意識や感覚を変えていく必要があります。

手や腕の感覚が強すぎる ⇒ 手や腕の力を抜く

腰周り(腹背や股関節)の感覚が弱い ⇒ 腰周りを意識的に動かす

ハッキリ言ってこれだけです。

ただこれを、普段の生活の隅々まで、

できるだけ広く、深く浸透させること。

日々の暮らしの中で、

末端から動く習慣を中心から動く習慣へと変えていくことが、

上達のカギなのです。

 

回転運動を理解する

「回転で打つ」ということについては、

「回転運動」がどういうものかを理解する必要があります。

物体の運動を形容する言葉としては、

「落下」「加速」「直線」「リズム」などがありますが、

それぞれの条件というか要求される定義がありますよね。

例えば「落下」だと、

「地球の重力に引かれていること」がその条件です。

あるいは「加速」だと、

「徐々に速度が速くなっていること」がそれにあたります。

では、「回転」においては何がその条件となるでしょうか?

「直線」は「まっすぐなこと」だし、

「リズム」は文字通り「一定のリズムがあること」ですよね。

では「回転」だと・・・?

それは「回転軸があること」です。

つまり「回転運動」を行うためには、

「回転軸をつくればいい」のです。

ですが「回転で打てない」という場合、

問題はこの「回転軸」が無いか、

あってもすぐにブレてしまう点にあります。

そこでまずは、一番簡単に取り組める「スワイショウ」という運動から行います。

やり方は足幅を肩幅に開いて真っ直ぐに立ち、

爪先を正面に向けます。

次に、姿勢を崩さないまま身体の力を抜き、

身体の中心に意識を向けます。

その状態で腰を左右に捻転させると、

力の抜けた腕は勝手に振り回される。

注意点は、顔が下を向いたり重心が左右にブレないようにすること。

足裏と腰、頭の天辺を意識することで、

自分の身体の中心を垂直に通る軸を感じ続けたいのです。

 

スワイショウのススメ

理屈っぽい説明になりましたが、

「腰の回転で打つ」ということが何となくイメージ出来たでしょうか。

それは、「回転軸を崩さずに中心から動く」ことなのです。

注意深く読んでもらえると分かると思いますが、

「スワイショウ」を正しく行うことは、

「腰で打つ」ことと「回転で打つ」ことの両方に役立ちます。

もちろん実際の競技ではもっと複雑な動きが要求されますが、

だからこそ、基本的な運動の精度を上げる必要があるのです。

ぜひ、繰り返し取り組んでみて下さい。

 

 

 

脱力と3Dアート:10/12修練メモ

 

こんにちは、ワタルです。

今回は、「脱力と3Dアート」というタイトルで、

昨日の武颯塾大阪支部集中修練について、

簡単にまとめながら振り返っていきます。

 

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昨日の練習内容

武颯塾は「総合武術道場」と銘打っているのですが、

その練習内容は普通の人が考える「武術」から大きく離れています。

実際、昨日の修練において行ったことと言えば、

・腕の動かし方

・寝転び方

・歩き方

の3つだけですw

もちろん同じことを5時間以上もずっと行ったわけではなく、

例えば腕の動かし方であれば、

「上下」「前後」「左右」と方向を変えたり、

あるいは様々に負荷の掛け方を変えながら行います。

ただ、こうやって文章で書いてみると、

「何が面白いの?」

という疑問が湧いて当然だとも思います。

やっている当人としては面白くて仕方がないので、

ここに大きなギャップがあると常々感じています。

というか、歯がゆくてしょうがないw

そこでこのギャップがどこから生まれるのかについて少し考えてみました。

その答えの一つが「脱力と3Dアート」なのです。

 

3Dアートの思い出

私が中学生だった頃なので、もう20年以上も前になります。

「3Dアート」が描かれているという下敷きを、

クラスメイトの女子に見せてもらいました。

(こういう珍しいものは大抵、女子が持ってきますよねw)

それは一見すると何の意味もない模様なのですが、

目の焦点をずらすことで絵が浮かび上がってくるというものです。

近くの席の友達が集まって次々と下敷きを廻して試すのですが、

最初はなかなか見ることができません。

だんだん目が疲れてきて、

「もういいっ!!」

と、隣の席に渡してしまう。

ですが繰り返し挑戦していると誰かが、

「あっ、見えた!!」

と言いだし、そこからは次々とみんな絵が見えるようになる。

おそらく、多くの方が経験しているのではないでしょうか。

私も初めて絵が見えた時の驚きと嬉しさはなんとなく覚えています。

 

見える人と見えない人

そんな3Dアートの特徴は、

「目の焦点をずらす」という方法を知らない人にとっては、

ただの無意味な模様でしかないということです。

そこに別の何かが描かれていると教えてあげても、

その人が見ることができない限り、

「そんなものは描かれていない」

と言われるだけでしょう。

(もちろん一般的な知識として「3Dアート」を知っていれば、

自分が見えていなくてもアタマでは理解できるかもしれませんが。)

この、

「見える人にはとっては在るけれども、見えない人にとっては無い」

というところが「脱力」による力の特徴の一つなのです。

 

脱力と3Dアート

昨日の集中修練の内容は、

・腕の動かし方

・寝転び方

・歩き方

の3つだけだったと書きました。

これらを見て面白くないと感じるのは、

3Dアートにおける「意味のない模様」の方を見ているから。

今までの自分が何十年と繰り返してきた運動のやり方でこれらを見れば、

それはどう考えてもつまらない日常の繰り返しでしかありません。

けれども「脱力」による運動が少しでも実感できるようになると、

外見上は同じ運動に見えても、

中身は全く違ったものになります。

3Dアートに描かれているものは同じなのに、

見る人によって別のものが見えるように。

そこに脱力修練の醍醐味があるのです。

3Dアートは、見えない人にとっては無意味な模様しか描かれていない。

しかし見える人にとっては模様と同時に、

絵を発見する喜びも描かれている。

脱力による運動を学ぶことも同様に、

単なる日常動作の中に感動を発見する手掛かりとなるのです。

 

力を抜いたら立てないのか?

 

先日、修練仲間の話を聞いて印象に残ったことがある。

「ストレッチ教室に毎回来てくれる人がいるのだけれど、

『力を抜いたら立てないですよね』というところから話が進まない」

これは脱力を学ぶ上で、避けては通れない道だと思う。

この「力を抜いたら立てない」というコメントには、

脱力に対する勘違いが象徴的に表れている。

そこで今回は、「脱力」を実際に使う上で必要となる、

基本的な考え方について書いていきたい。

 

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脱力における大きな勘違いに気づく

「力を抜いたら立てない」と思っている人は、

力を抜くことを「立つことをやめること」だと勘違いしている。

だから、力を抜くと立っていられない。

それは立つことをやめたのだから当たり前。

立つことをやめたのに立っていられたら、

むしろ座る時や寝るときに困ってしまう。

「立っている状態で力を抜くことは、

立つことをやめることではない。」

ほとんどの人は、立つという「行為」と「力み」とが、

切り分けられないものだと勘違いしている。

脱力を学ぶ上で、これを理解することが1つ目の大きな壁になるだろうし、

おそらくストレッチ教室の生徒さんもここで躓いていると思う。

 

力が抜けた感覚を知る

1つ目の壁である「行為と力みの同一化」という勘違いを理解しても、

おそらくまだ「力を抜いて立つ」ことは出来ないと思う。

それは「力の抜き方」が分からないからだ。

そこで、「上げた腕を落とす」という、

比較的簡単にわかる方法で力を抜くことから脱力修練は始まる。

リンゴが木から落ちるように腕にも重力が働いているので、

何も考えずに力を抜けば上げた腕は落ちる。

腕が落ちたという結果を手掛かりにして、

力を抜くという感覚を掴むのがこの修練の目的。

そして同じことを脚で行えば、

脚の力が抜けた感覚(のようなもの)が身について来るだろう。

 

2つめの勘違いに気づく

ところがこの「脚の力が抜けた感覚(のようなもの)」だけではまだ、

「力を抜いて立つ」ことが出来ない場合が多い。

少なくとも私の場合はそうだ。

そこで、「力を抜けばいつも同じ感覚になるはず」

というもう一つの勘違いを正す必要がある。

ただ上げた腕や脚を落とすという場合には、

自分自身の緊張以外、基本的には何の抵抗もない。

ところが立っている状態においては、

自分の体重分の力が地面から足の裏に加わっている。

上げた腕や脚の力を抜くのと、

立っている状態で脚の力を抜くのとでは、

違う感覚を感じて当たり前なのだ。

それにも関わらず私自身は、

「脚の力が抜けた時の感覚を求めながら、立っている状態で力を抜く」

ということを長い間行っていた。

だから、脚の力が抜けなかった。

 

力を抜いて立つために

以上のことから言えるのは、

立っている状態で脚の力を抜くためには、

「足の裏に感じる地面からの力」を受け入れなくてはいけない。

「抵抗が無い時に力が抜けた感覚」を頼りにしていては、

いつまでたってもそれを感じることは出来ない。

なぜなら立っている以上、力は常に加わっているのだから。

「力が抜けた感覚」ではなく、「力を抜く感覚」を知る。

これが、「力を抜いて立つ」ために必要なことなのだ。

そしてそれが理解できれば、

「上げた腕や脚を落とす」という恐ろしく地味な修練が、

とんでもなく奥深いものへと一変する。

「落ちた後」や「落ちている間」もさることながら、

「落ち始める刹那」の感覚を捉えることがその目的へと変化するから。

私自身はこの変化こそが脱力修練のおもしろさだと思うのだけど、

いかがだろうか?

 

 

脱力そのものに意識を向け続ける

 

最近、テレビや新聞などで「脱力」という言葉を目にすることが増えてきました。

先日はNHKの番組内で、塩谷哲さんというピアニスト・作曲家の方が、

ピアノにおける脱力の必要性を伝えていました。

オランウータンやハトを例に出した面白いものでした。

さらにもう少し前になりますが、朝日新聞の記事にオーレリー=デュポンという、

バレエのオペラ座のエトワールの方へのインタビューが載っていました。

そこで彼女は振付師の勅使河原三郎さんから、

「全身の力を抜く事と身体中の関節を意識すること」

を要求されていて、それがとても難しいと言っていました。

このように様々な分野のトップの方が「脱力」について語ることで、

その効果や必要性がより一般的に認知されることは嬉しい限りです。

しかもそれが、スポーツや武道に限らず芸術方面にも役立つというのが、

脱力の魅力の一つだと思います。

 

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脱力トレーニングは感覚のトレーニング

そんな「脱力」を学んで行く上で難しいと感じるのが、

「自分の感覚がアテにならない」

ということです。

師範からはたびたび、

「脱力修練は感覚のトレーニング」

であると言われます。

感覚器官としてのカラダが感じていることを、

アタマが正しく認知できるようになることが重要なのです。

ところがほとんどの場合、アタマは自分勝手な解釈をしてしまいます。

それをやめてフラットな状態で感覚をとらえる。

それが脱力のトレーニングにおいて重要なのです。

 

陥りやすい勘違い

自分勝手な解釈の例の一つして私自身のことを挙げましょう。

脱力トレーニングをしていると、「力を抜いた感覚」が分かってきます。

肩の力を抜く前と抜いた後の、感覚の違い。

「抜く前がこんな感じで、抜いたらこんな感じになった。

だから、力を抜いた感覚というのはコレなんだ。」

と思って、「力を抜いた感覚」に合わせていく。

それが「脱力」だと思っていました。

だから、力を抜いたらすぐに、

「力がちゃんと抜けているかな?」と思って、

その感覚が感じられるかどうかを確認していたのです。

そして、それが「感覚のトレーニング」だとも考えていました。

 

脱力は確認不能?

ところが最近、愕然とする事実に気がついたのです。

それは、

「力を抜いた感覚」

だと思っていたものが実は、

「力が入っている感覚」

だったことです。

さらにはこの「力を抜いた感覚」だと思っていたものは、

「自分のカラダがここにある感覚」

とも同じものでした。

つまり、せっかく力を抜いても、

「力がちゃんと抜けたかな?」と思ってその確認をしようとすれば、

すでに余計な力が入ってしまう。

これでは力を抜いたかどうかの確認が出来ません。

あたかも量子論における「シュレディンガーの猫」のように、

確認しようとした時点で状態が変わってしまうのです。

 

相手がいることの重要性

ということは、脱力のトレーニングにおいては、

「確認してはいけない」のでしょうか?

それでは自分が上達したかどうかを判断できないですよね。

そこで、「相手」が必要になってくるのです。

今の自分の感覚が、力が抜けたかどうかの確認の基準にならないのであれば、

その基準を自分以外のものに求めるというわけです。

自分はただ、「脱力」そのものに意識を向け続ける。

それが正しいかどうかは、相手が判断する。

その為の相対トレーニングであり、そこに「武術」という様式の大きな意味があるのです。

 

脱力そのものに意識を向け続ける

今の感覚に頼っているうちは、

負荷がかかった状態で本当に力を抜くことができません。

負荷がある状態と無い状態では感覚が違って当然で、

同じように抜けた感覚にはなり得ないのですから。

もちろんトレーニングを続けていくうちに、

今の感覚に頼らずに力を抜くことが分かってきます。

例えば手を動かすときに「ちゃんと動いたかな?」とは確認しないですよね。

同じように力を抜くことについても、

それそのものがどういうものかが分かってくる(はず)なのです。

そうなればまた違った段階のトレーニングがあるのでしょうが、

まずは脱力そのものに意識を向け続ける。

そこから始めるしかないと思うのです。

 

 

なぜ、「脱力」が必要なのか?

 

こんにちは、ワタルです。

今回は、なぜ脱力が必要なのかというテーマです。

「肩の力を抜きなさい」とか、

「もっとリラックスした方が良い」とはよく言われることです。

スポーツをやっている方ならなおさらだと思います。

監督やコーチ、トレーナーや親からよく出るアドバイスですよね。

だけどそもそも、

「なんで力を抜くのかが分からない」

というのが、言われた本人の実感だと思うのです。

分からないから出来ないし、そもそもやろうと思えない。

納得できないことをやらないのは当たり前ですよね。

ここで偉そうなことを書いている私自身がそうでした。

でも、今ならわかります。

力は抜いたほうがいい。

なぜか。

 

力を抜けば力が出る

といわれても、そもそも力んでいると力が弱くなるということが納得できないですよね。

とりあえず理屈だけ説明しましょう。

力むと筋肉は固くなります。

筋肉は縮むことと伸びることで動きを作り出します。

ですから筋肉が固くなると、スムーズな動きが出来なくなります。

要はサイドブレーキを引いたままアクセルを踏むようなもの。

これでは強い力が出なくて当然ですよね。

もう一つの理由は体重をうまく使えないから。

力んで身体が固くなると、体重をスムーズに移動させることが難しくなります。

その結果、腕なら腕、脚なら脚だけの力で動作を行ってしまうのです。

けれども力を抜いて身体が緩むと、体重移動そのものが楽に行えるようになります。

その結果、体重の乗った強い力が出せるのです。

 

確認方法

全身に力をギュッと入れたまま歩いてみて下さい。

ふくらはぎ、太腿、お腹、腰、胸、背中、肩、腕、手、首と、

思いつく限りの場所に力を込めて歩いてみましょう。

おそらく、というか間違いなく、歩きづらいですよね。

そこで今度は力を抜いて、普通に歩いてみて下さい。

格段に楽になったはずです。

力を抜いたほうがいいというのは、単純にこういうことなのです。

まずは歩くという「体重移動」がしやすくなるということが理解できたと思います。

 

体重移動を力に変える

ただ、ほとんどの人は最初、力を抜いたら弱くなります。

それはなぜかというと、体重移動を力に変えることができないからです。

そのため、どうしても何かしようとしたときに力んでしまう。

これは仕方のないことで、だから繰り返し練習する必要があるのです。

その時の注意ポイントとしては、

・絶対に力まないこと

・下向きの力から練習すること

・骨盤から動くこと

などが挙げられます。

目的は、自分の数十キロの体重を効率よく力として扱うこと。

その効率が上がるにつれて、力む必要が無いことがより深く理解できるでしょう。