注意観察力を磨く(練気武颯拳を修練することで得られるもの)

実は、武颯拳の修練においては、
「技の練習」をほとんど行いません。

武術の修練で「技の練習」をしないってどういうこと!?

と、多くの方は不思議に思われるかもしれません。

ですが、今の私やあなたが技の練習をしても、
それは「新しい技を今の自分に付け加えている」だけなのです。

それでは「前提」は何も変わりありません。

繰り返しになりますが、
武颯拳の修練は「前提」を変えるためのものなのです。

それは言い換えると、
「当たり前」や「常識」を変える修練だということです。

「当たり前」や「常識」は、それが当たり前であるがために、
変えること以前に認識することが難しい。

日常生活において、
空気や重力を特別に認識することはありません。

なぜならそれらは、
生まれた時からそこに在るものだから。

同じように「力み」も、
自我の発達と共に当たり前にあるものなのです。

だから、それを認識して取り去るためには、
相当な注意観察力が必要になります。

一般的な技の練習におけるスピードや複雑性の中でその作業を行うのは、
至難であると言えます。

ですから武颯拳においては、
静止した状態や単純な動きの修練が多くなります。

初めて見た方は、
あまりにも地味に見えて驚かれるかもしれません。

ですが、こういった地味な修練だからこそ、
自分の身体に意識を向ける続けることができるのです。

そうして自分の身体に対する注意観察力を磨くことが、
武颯拳の修練の第一歩だと言えます。

この研ぎ澄まされた注意観察力によって、
普段は当たり前すぎて気付けない「力み」を認識し、
取り去ってゆくのです。

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前提を変える(練気武颯拳を修練することで得られるもの)

今日からは、ホームページ更新準備を兼ねて、
「練気武颯拳を修練することで得られるもの、期待できる効果」
について、私が思うところを書いていきます。

「今、自分を、変える。」

「その為の修練をする仲間と出会うことができる。」

それこそが、
練気武颯拳(以下、武颯拳)をすることであなたが得られる最大のメリットです。

ただ、そうは言っても、武颯拳を修練することで、
「なぜ」「どのように」自分を変えることが出来るのかがわからないと、
納得して修練に取り組むことが出来ません。

というわけで、武颯拳の修練が、
「今の自分を変える」理由についてお伝えしたいと思います。

武颯拳の修練における最大の特徴は、「脱力」にあります。

「武颯拳では何を修練しているのですか?」と訊かれたら、
即座に「脱力です。」と答えられます。

もちろん、一般的な武術・武道やスポーツの指導においても、
「脱力」の重要性は説かれています。

でもそれは、「上手く技を掛ける」とか、「良いプレーをする」という為に、
「筋力を効果的に使う」ことを目的とした「脱力」が多いように見受けられます。

「何かをうまくやる」為に「力を抜く」というわけです。

ところが、想像以上にこれが難しい。

中途半端に力を抜こうとすると、ほとんどの場合、
かえって上手くいきません。

今の私たちにとって、「力を抜いて何かをする」ことは、
「力を入れて何かをする」ことよりも断然難しいのです。

だから、結果の分かりやすい「筋力」に頼ってしまう。

そして、力を抜いた技やプレーは、
「才能」の一言で片付けられてしまうのです。

これらは全て、「今の自分が何かをする」という前提に立った話です。

「自分には才能がない。だから筋力で補おう。」というわけです。

言い方を変えれば、
「出来ないことを、何かを付け加えることで出来るようにする」
発想だと言えます。

武颯拳は、その前提を変えるのです。

「もともと出来ることを、今の自分が力みという形で邪魔をしている。」
という前提へと。

だから、
「その力みを取り去れば、本来誰もが持っている合理的な力を使うことが出来る。」
というわけです。

では、どうすれば力みを取り去り、「脱力」することが出来るのでしょう?

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「脱力」が「自分」と「世界」についての認識を変える

ここまでの記事において、
「力み感覚」がいかに根深いものであるかを考えてきました。

自分についての「実感」と、
世界についての「現実感」。

これらを形作る重要な要素として、
「力み感覚」があると考えられます。

言い方を変えると、
「力み感覚」があるから今の自分や今の環境があるわけです。

そう考えると、
「肩の力を抜く」「リラックスする」

ということが、
口で言うほどに簡単ではないことが理解できます。

ほとんどの人は、
今の自分や今いる環境を変えたくはないはずですから。

だから、現状に危機感を感じていない人にとっては、
脱力修練に取り組むことは難しいと思います。

インスタントに身につかないということもありますが、
そもそも必要としていないのです。

「脱力が出来たからと言ってどうなるの?」
というのが正直な感想だと思います。

でも、

「現状に危機感を感じている」
「今の自分をどうしても変えたい」

というごく少数の人たちにとっては、
脱力修練ほど役に立つものはないと断言できます。

なぜなら「力み感覚」が、
「自分に対する実感」と「世界に対する現実感」を感じさせているということは、

「脱力」が「自分」と「世界」についての認識を変えるための、
最も直接的なアプローチになるからです。

…とはいえ残念ながら私自身は、
本当に脱力した状態というものを知りません。

ですから、
「脱力したらこんな良いことがありますよ」
ということを正確にはお伝えできません。

ただ、師範とお会いするたびに感じるのは、
とても楽で楽しそうだということ。

様々な人や出来事に対して身構えたり自分を取り繕ったりすることがなく、
とても自然な感じだということ。

そんな自分になりたくて、
私は修練を続けています。

脱力修練、
一緒にしませんか?

「身体感覚」は「視覚」や「聴覚」に優先される

前回の記事では、
「確固たる自分でいるための魔法の感覚」として、
「力み感覚」があると述べました。

自分の意志でいつでも感じられる「力み感覚」は、
自分についての「実感」と、
世界についての「現実感」を与えてくれるのです。

「現実感」については、
テーマパークのアトラクションを例に考えるとわかりやすいです。

USJなどのテーマパークには、
3D映像と座席の振動を利用したバーチャルアトラクションがあります。

私自身、
体験するまでは「子供だまし」だと思っていました。

が、これが意外と楽しめます。

3D映像に合わせて座席がガタガタと揺れているだけ、
ということを頭では理解しているのです。

でも、身体はそのようには反応しません。

目で見て、耳で聴いて、さらに揺れたり傾いたりすると、
それは「現実(的)である」と受け止めてしまうのです。

ここで「現実(的)」と表現したのには理由があります。

それは、「現実」とは、
幾つかの感覚の組み合わせによって作られるものだからです。

この場合は視覚・聴覚・身体感覚(触圧覚・位置覚・平衡感覚など)からの情報により、
「現実(的)」であると認識しています。

視覚・聴覚刺激だけの映画やテレビと比べると断然「現実(的)」ですが、
さらに状況に応じた味覚や嗅覚が刺激された場合と比べるとどうでしょう?

やはり、
「現実」としての認識度合は下がるでしょう。

つまりここでは、
「同時により多くの種類の感覚からの情報を得られるほど、現実度が上がる」
ということが言えると思います。

ですがこれだけでは、
「力み感覚」が「現実感」を作るという説明にはなっていません。

というわけで、
もう一度バーチャルアトラクションの話に戻ります。

テレビや映画よりもバーチャルアトラクションの方が現実感がある、
ということには異存がないと思います。

「視覚+聴覚」よりも、
「視覚+聴覚+身体感覚」の方がより現実(的)だからです。

では、
「視覚+聴覚」と「聴覚+身体感覚」ではどうでしょう?

この比較は簡単にできます。

「触感が全くないキス」と「目を瞑ってのキス」、
どちらを選ぶかという話です。

別に、「キス」を「セックス」と置き換えても構いません。
おそらくほとんどの人が後者を選ぶのではないでしょうか。

同様に「触感が全くないキス」と「耳を塞いでのキス」であれば、
やはり耳を塞いだ方が良いですよね?

ということは、
「現実感」の度合いにおいて、

『「身体感覚」は「視覚」や「聴覚」に優先される』

のです。

そして、
このもっとも現実(的)である「身体感覚」をお手軽に感じられるのが、

「力み感覚」

だというわけです。

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「力みによる実感」が「確固たる自分」をつくる

前回に引き続き、
「自我」と「力み」の関係について考えていきます。

少し振り返っておきますと、

「『自我』とは『思考』『感情』『感覚』が相互に影響し合って生まれたもの」

だと現時点では考えます。

ここで注意してほしいところは、
「思考」や「感情」は知覚された「情報」についての「反応」であることです。

それはつまり、
「思考」や「感情」だけでは『自我』は成立しえないということ。

なぜならあまりに多くの「情報(広い意味での)」が、
ただ生きているだけで知覚されるから。

仮に「思考」や「感情」だけが『自我』だとするとどうなるでしょう?

言うこと為すことがめまぐるしく変わりすぎて、
「私が私である」と言える根拠が形づくられません。

そこで、「感覚」の出番なのです。

「思考」や「感情」がある種の「感覚」とリンクすることで、
まとまったものとして定着しやすくなる。

そこではじめて、
「私が私である」と言える根拠になるのです。

ところが、
先ほども言ったように「情報」があまりにも多いため、

普通の「五感」とリンクするだけでは、
「思考」や「感情」は根拠と言えるほどには定着しないのです。

ずっと同じものを観ているわけでも、
同じものを聴いているわけでもないのですから。

では、外部からの「感覚」ではなく、
自分で作り出せる内部からの「感覚」とリンクさせるとどうでしょう?

こうすると、
時と場所を選ばず感じることができるようになります。

「私が私である」と。

これは便利だと思いませんか?

外部からの情報によって影響される「移ろいやすい自分」ではなく、
自分で自分を定義できる「確固たる自分」になれるわけです。

そんな素晴らしい魔法の「感覚」(と思ってしまうもの)こそが、

「力みによる実感」

なのです。

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「思考」「感情」「感覚」

少し前の記事で触れた、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

という仮説について、
さらに踏み込んで考えてみます。

そもそも、
『自我』とは一体何なのでしょう?

心理学的な正しい定義は残念ながら知りませんが、
大雑把な感覚で言うと、

「私が私である」

と認識する働きが『自我』である、
と言えるのではないでしょうか。

「『私』と『私以外』を区別する働き」
と言ってもいいかと思います。

この働きを形作るものは幾つか考えられますが、
主になるのは以下の3つだと考えます。

「思考」「感情」「感覚」

この3つが相互に影響しあうことで、
『自我』として存在するのです。

この3つの関係について思い切り簡略化した説明をすると、
以下のようになります。

1.身体内外の情報を「感覚」として知覚する。

2.知覚した情報に対する反応として、「思考」が湧く。

3.「思考」の内容に応じて「感情」があらわれる。

4.「思考」「感情」に合わせて身体状況が変化し、「感覚」が変化する。

5.変化した「感覚」を知覚して、さらに「思考」が湧く。

6.以下、繰り返す。

もちろん実際にはこんな単純なものではないでしょうが、
イメージとしては概念しやすいかと思います。

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「『武術』を使った『脱力』の修練」(続々々・人はなぜ「力む」のか?)

ここ3回にわたって、

「人はなぜ力むのか?」

をテーマに考えてきました。

そしてたどり着いた考えが、

「『力み』が『実感』を生み出す」

ということ。

そして、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

ということなのです。

つまり、

「『自我』が存在し続けるために力んでいる」

ということが言えると思います。

そう考えると、
「力み」がいかに根源的な欲求に根差したものかがわかります。

日々「脱力」の修練をしていても、
思い通りに進まないわけも理解できます。

なぜなら「私が」上手く技を掛けるために、
「脱力」をしようとしているからです。

ここまで3回の記事を読んでくださった方であれば、
これがいかに矛盾した行為であるかがお分かりでしょう。

「私が」という「自我」が存在するためには、
「力み」による「実感」が必要なのです。

これでは、いくら「脱力」しようとしても、
根本的な「力み」が無くなるはずがありません。

車のブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなものですから。
もしかすると、サイドブレーキも引いたままかもしれません。

そこで、自分自身の修練の方向性を見直すことにしました。

これまでは、

「『脱力』を使った『武術』の修練」

をしていました。

これからは、

「『武術』を使った『脱力』の修練」

をしていきます。

「『私が』技を掛ける」修練から、「技を掛ける」修練へ。

今回いろいろと考えることで、
練気武颯拳の修練がより一層楽しくなりました。

自我の存在証明としての『実感』(続々・人はなぜ「力む」のか?)

前回の記事において、
断言してしまいました。

「力みによって得られるものは『実感』であり、
ほとんどの人は、『実感』を得ることを、何よりも優先してしまう」と。

今回はこのことについて考えていきます。

まず、「力み」によって「実感」が得られることについてですが、
これについては簡単に理解できると思います。

試しに、「力こぶ」を作ってみてください。
そう、上腕二頭筋をギュッと収縮させるのです。

すると、感じられると思います。
「今、ここに私の腕が確かにある」という「実感」が。

ウェイトトレーニングをしたことのある方は、
よりわかりやすいと思います。

ウェイトを上げるために、
目的の筋肉にグッと力を込める。

そして、自分の限界まで力を出した時に感じますよね。
「ああ、よく頑張ったな俺(私)」って。

もちろんこれは極端な例ですが、
「力み」によって「実感」が得られるということはわかってもらえると思います。

次に、この「実感」を得ることが、
他の何よりも優先される理由について考えます。

もう一度ウェイトトレーニングを例にみてみましょう。

例えばあなたが、
ベンチプレスで100kgのウェイトを挙げたとします。

人によっては軽々と挙げるかもしれませんが、
多くの人にとっては渾身の力を振り絞って挙げるでしょう。

いずれにせよそこには確かな「実感」、
言い換えると「手応え」があります。

この「手応え」があるからこそ、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと認識できるのです。

ではもし、この「手応え」が無かったとしたら?

見た目には確かに100kgと書いたウェイトが挙がっています。
ガチャガチャという音もしています。

でも、「手応え」は全く感じられません。

この状態であなたは、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと思えますか?

思えないはずです。

それが「軽い」にせよ「重い」にせよ「手応え」として感じられるからこそ、
「あなたが」ウェイトを挙げたことになるのです。

これは、武術の技においても同じことが言えます。

練気武颯拳の技はすべて、
「脱力」によって掛けます。

ですが、本当に「脱力」による技を掛けたときは、
今まで感じていた「手応え」は全くないのです。

そんな状態で技を掛けた時に、
感じることができるでしょうか?

「私が」技を掛けた。
「私は」相手より強い。

感じられませんよね。
なぜなら「手応え」という「実感」が無いのですから。

つまり、
翻ってみると、

「実感」があるからこそ、
「私が」「あなたが」何かをしたと言えるのです。

この、何かをする「私」「あなた」こそが、
「自我」と呼ばれるものだとすれば…

そう、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

のです。

次回はこのあたりについて考えてみたいと思います。

(以下、次回へ右矢印

「力み」によって得られるもの(続・人はなぜ「力む」のか?)

「そもそも、なぜ人は力んだ不合理な動きをしてしまうのか?」

練気武颯拳を修練するうえで、
避けては通れない疑問です。

この疑問を解くためには、

「力むことで、一体何を得ているのか?」

について考える必要があります。

脱力修練をしたことのない人にとっても、
「力みを取る」「肩の力を抜く」ことの効果は理解できると思います。

それでもなお力んでしまうのは、
力むことで「何か」を得ているからなのです。

そしてその「何か」は、
ほとんどすべての人にとって、
かけがえのないくらい大切なものなのだということ。

脱力して目を瞠るほどのプレーをしたり、
達人のような技をかけること。

あるいはリラックスして居心地の良い人間関係を築いたり、
誰もが驚くような仕事の成果をあげること。

それよりも優先されるべき「何か」を得られるからこそ、
人は力んでしまうのです。

素晴らしいパフォーマンスや清々しい気分。
それらを犠牲にしてまで得たい「何か」とは?

…あまり引っ張っても仕方がないので、
サラッと言っちゃいます(笑)

その「何か」とは、
「実感」のことなのです。

こう書いてしまうと、
ほとんどの人は拍子抜けしてしまうかもしれません。

「私はそのようなものよりも、結果を求めている」
とおっしゃるのではないでしょうか。

しかし、それでも断言してしまいます。
「ほとんどの人は、実感を得ることを、何よりも優先してしまう」と。

次回はそのあたりについて考えていきます。

(以下、次回へ右矢印

人はなぜ「力む」のか?

練気武颯拳の修練を続けていると、
数多くの疑問に突き当たります。

それらを師範に尋ねると、
ほとんどの場合は丁寧に教えて頂けます。

ところが質問によっては、
「あえて答えは言わない」という場合があります。

今回はそんな疑問の一つである、

「そもそも、なぜ人は力んだ不合理な動きをしてしまうのか?」

について考えてみます。

練気武颯拳で教わる「脱力」による合理的身体運動は、
そもそも本来誰もができるものであり、

それを妨げている不要な「力み」を取り除けば、
今すぐにでも「達人」になれるはずなのです。

ところが、現実はそんなに簡単ではありません。

力を抜いて技を掛けようとしても、
様々な「思い」が湧き上がってきて力んでしまう。

今日は上手く掛かったと思っても、
あくる日には全然上手く掛からない。

修練生の方なら、皆さんが感じておられることでしょう。

脱力が合理的な身体運動を生み出すということについては、
私の10年ちょっと程度の修練期間でさえ経験済みなのに。

力を抜いたほうが、楽に、しかも上手くいく。

それにもかかわらず、力んでしまう。

誰に教えられたわけでもないのに。

なぜなのでしょう?

ここにはきっと、自分では意識していない、
大きな「理由」があるはずなのです。

(以下、次回へ右矢印