鞭のように腕を使う:質疑応答

 

こんにちは、ワタルです。

昨日、卓球をされている方からメールで次のような質問がありました。

「手先の意識が強くならないように意識して卓球の練習をしていると、

上腕にも力が入っているように感じました。

腕の力を抜くにあたって、

前腕だけでなく上腕も意識した方が良いですか?」

今回はその回答を書いていきます。

 

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質問をくれた方はもう2年以上修練に参加してくれているので、

おそらく「腰の回転で打つ」の記事を読んで、

その通りに練習をしてくれたのでしょう。

とてもありがたく思います。

余談ではありますが、

11月7日から始まる全日本社会人選手権でも頑張ってほしいです。

 

問題は前提条件の中に

質問としては、

「腕の力を抜くにあたって、上腕も意識した方が良いのか?」

という部分を訊きたいのだと思います。

それについては、

「そうした方が良いです」

という答えになります。

ただ文章の内容からすると問題は、

「手先の意識が強くならないように意識して練習すると、

上腕にも力が入っていると感じる」

という部分にあります。

実際に見ていたわけではないので100%そうだとは言い切れませんが、

手先の意識の仕方が上腕の力みの原因だと考えられるのです。

 

起こりやすい失敗

「腰の回転で打つ」の記事の中で、

「腰で打つ」ためのアドバイスとして、

「手や腕の感覚が強すぎる ⇒ 手や腕の力を抜く」

「身体の中心から動く」

ということを書きました。

普通の運動はどうしても、

手や腕などをそれ自体の筋力で動かそうとしてしまいがちです。

それを矯正するための方法として、

あえて手足を動かさずに身体の中を意識するだけで、

そのときに起きる変化を感じるというやり方もあります。

ただ今回の質問においては、

「卓球の練習をしている」という前提があります。

その状況においては当然、

腕を動かしてラケットを振らなければいけません。

にもかかわらず、手打ちにならないように意識するあまり、

その場で手を「固定」してしまったのでしょう。

それが結果として上腕の力みとして感じられたのだと思います。

同じような経験は私にもあるのでよく分かるのですが、

これは脱力を修練していると陥りやすい失敗の一つなのです。

 

鞭のように腕を使う

言葉で感覚を説明するのが難しいのですが、

「腕の力を抜く」ことと、

「腕が動かない」ことは違います。

武颯拳の基本修練に「鞭手(べんしゅ)」というものがあります。

これは文字通り手や腕を鞭のように扱うというものですが、

まさにこの「鞭」を使う時のことをイメージしてほしいのです。

とは言え実際に使ったことのある人もいないでしょうから、

縄跳びの縄で何かを打つイメージでも結構です。

鞭や縄で何かを打つときに、

物に当たる先端を直接つかんで動かすことはしませんよね。

実際に掴んで動かすのは、手元の持ち手の部分です。

けれども持ち手の動きが先端にどう伝わるかは意識しているはずです。

動かす意識としては持ち手にある。

けれども中間目標(意識)として先端があり、

最終目標(意識)として対象物がある。

鞭や縄を扱う時のこの意識の持ち方を、

腕にも当てはめて欲しいのです。

 

動かす意識と目標意識の分離

先の記事において私が「手や腕の意識が強すぎる」と表現したのは、

動かす意識と目標意識の両方が手や腕にある状態を指しています。

そこから動かす意識だけをより身体の中心へと近づけたいわけです。

その時に目標意識まで外してしまっては、

手先に力を伝えて動かすことが出来なくなってしまいます。

身体の中心を動かして、

中間目標としての手から目標にまで動きと力を伝える。

そのために、手や腕から「動かす意識」を分離させる。

それがこの場合の「腕の力を抜く」ということなのです。

このことを理解した上で、

前腕だけでなく上腕も肩も胸も、

より力を抜いてもらえればと思います。

さらなるレベルアップを期待しています。

 

 

いつまでも山に登れるカラダでいるために(膝の痛みを取る):10/21修練メモ

紅葉

 

こんにちは、ワタルです。

10月も半ばを過ぎて、随分涼しくなってきました。

私が大学での5年間を過ごした京都市右京区でも、

もうすぐ嵐山が紅葉のシーズンを迎えようとしています。

住んでいた時は嵐電(京福電鉄嵐山線)が満員になるのがイヤだったのですが、

今ではこの時期に行くのが一番好きだったりしますw

 

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そんな嵐山も「山」とついているだけあって、

あちこち見て回ろうと思うと結構な坂を上り下りします。

また、嵐山に限らず紅葉を楽しもうと思ったら、

やっぱり「山」に登るのが一番。

カラダを動かした爽快感と空気のおいしさが相まって、

一段と景色がきれいに見えますよね。

昨今のアウトドアブームの影響もあって、

山登りが趣味だという方は多いと思います。

 

山登りに必要なもの

そんな山登りを楽しもうと思ったら、

最低限必要なものがあります。

もちろんリュックや登山靴やゴアテックスのパーカなども必要ですが、

より大切で必要不可欠なもの。

それは「元気な膝」です。

せっかくの紅葉も、おいしい空気やお弁当も、

膝が痛いようでは魅力半減です。

それどころか、「今年はツラいからやめようか」ということにさえなりかねません。

ところが最近、患者さんだけでなく周りの多くの人が、

「膝が痛い」と言うのを耳にします。

それも年配の方だけでなく、30代、40代の方からも。

このことから分かるのは、

「膝の痛みは年齢のせいではない」

ということ。

実際私自身も中学、高校と2回膝に水が溜まった経験があり、

学生時代は膝が気になることが多かったです。

 

膝を痛める人の特徴

では、膝の痛みの原因は一体何なのか?

それはこのブログにおけるメインテーマの一つである、

「カラダの使い方」にあります。

膝を痛める人の動きには、

共通する大きな特徴があります。

それは、「地面を蹴っている」ということ。

例えば駅の階段で、前を上っている人を注意して見て下さい。

ほとんどの人が前かがみになって、

それでいてお尻が後ろに落ちた状態で上っています。

これが地面を蹴って膝を伸ばす動きの典型的なパターンです。

さらにひどくなると、ドタドタと大きな足音が響く。

本人に自覚は無いと思いますが、

これは必死に地面とケンカしている状態なのです。

より正確に言えば、

「自分の体重による地面からの反発を、

膝で受け止めて地面に返そうとしている」

となります。

だから、膝に負担がかかって、痛めるのです。

 

膝を痛めないカラダとは?

膝を痛めないために、あるいは痛めた膝を回復させるために、

まずはこのことをちゃんと理解する必要があります。

「軟骨がすり減った」から、

「半月板が無い」から痛いのではありません。

地面からの衝撃を膝で受け止めるから痛いのです。

下の動画を見てください。

 

 

よくある「卵が割れない」という衝撃吸収材の実験です。

要はこの衝撃吸収材のようなカラダになれば、

膝が痛むことはありません。

ところがほとんどの人は、

「膝の軟骨や半月板”だけ”」が衝撃吸収材だと思っています。

そうではなく、「カラダ全体」が衝撃吸収材となるように扱う。

地面からの反発を吸収してしまうカラダづくりこそが、

膝の痛みを無くす最善の方法なのです。

 

衝撃吸収材としてのカラダ

地面からの衝撃を吸収するために必要なのは、

「カラダがゆるんでいること」です。

先の動画で使われている衝撃吸収材は、

「ゲル」という素材によってつくられています。

この「ゲル」の性質として特徴的なのは、

「固体と液体の中間」であること。

この性質だからこそ衝撃を吸収できるのです。

そして同じように「固体と液体の中間」の性質を持つのが「人体」なのです。

「人体」は60パーセント以上が水分でできています。

「水袋の中に骨が浮かんでいる」というのが「人体」の正しい認識なのです。

ところが筋肉を固めることで、カラダは「固体」としての性質を強く表します。

すると衝撃を吸収できずに受け止めてしまい、

その負荷に耐えられない部分から痛み出します。

だから「カラダをゆるめること」によって、

本来の「固体と液体の中間」である性質を引き出すことが必要なのです。

私自身、膝の前十字靭帯が切れており、半月板も損傷しています。

けれども日常生活で不都合を感じることが無いのは、

「カラダをゆるめる」ということに毎日取り組んでいるからなのです。

 

私たちの取り組み

10/21の武颯塾神戸修練会においては、

「力を吸収する」というテーマで修練を行いました。

相手から押された力を吸収して地面に流したり、

地面からの反発を吸収して相手に流したり。

カラダの力を抜くことで、

自分の中を力が通っていく感覚が感じられるようになります。

この感覚によって地面からの反発を吸収することが上手くなるほどに、

膝だけでなくあらゆる関節の痛みは確実に減っていくことでしょう。

そしてそれは、いつまでも山に登り続けられる、

自由で活動的な暮らしにつながっているのです。

 

腰の回転で打つ:10/14修練メモ

 

こんにちは、ワタルです。

今日は、昨日の修練で質問があった、

「腰の回転で打つ」

ということについて書きます。

 

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出来る人と出来ない人

卓球をしている修練生から、

「先生に『腰の回転を使ったスイングが出来ていない』

と指摘を受けたけれど、どうやったら出来るようになるのか?」

という質問を受けました。

この、「腰の回転で打つ」ということは、

卓球に限らず野球やテニス、ボクシングなど、

腕を使う多くの競技で指導されると思います。

にもかかわらず、それが出来る人と出来ない人がいる。

そしてその違いは「センスの有無」として片づけられる。

どこでもそうだとは言いませんが、

結構ありそうな話ですよね?

「じゃあ、どうしたらいいかちゃんと教えてくれよ!!」

と言いたくなる気持ちは、

少なくとも「出来ない人」だった私にとっては、

まったく他人ごとではありません。

というわけで、ここでは出来る限りわかりやすく、

「腰の回転で打つ」ということについて説明します。

 

「腰の回転で打つ」とは?

「腰の回転で打つ」という言葉には、

実は2つの意味が含まれています。

一つは「腰で打つ」ということであり、

もう一つは「回転で打つ」ということです。

この2つが出来て初めて、

「腰の回転で打つ」ことが出来ます。

つまり腰の回転で打てていない状態とは、

この2つのいずれか、あるいは両方が出来ていないのです。

 

身体の中心から動く

「腰で打つ」の反対は「手打ち」です。

手先や腕の力だけで打つことが不合理で弱い力しか出ないことは、

理屈の上では多くの人が分かっています。

にもかかわらず手打ちになってしまうのには、

次の2つの理由が考えられます。

・手や腕の意識や感覚が強すぎるから

・腰周り(腹背や股関節)の意識が弱いから

いずれも現代社会においてはある意味、

仕方のないことだと言えるかもしれません。

毎日学校や職場で何時間も座りっぱなし。

その間に動かすのは目と手だけ。

そういった生活を何年何十年と続けてきたのですから。

ですが「腰で打つ」ためにはその意識や感覚を変えていく必要があります。

手や腕の感覚が強すぎる ⇒ 手や腕の力を抜く

腰周り(腹背や股関節)の感覚が弱い ⇒ 腰周りを意識的に動かす

ハッキリ言ってこれだけです。

ただこれを、普段の生活の隅々まで、

できるだけ広く、深く浸透させること。

日々の暮らしの中で、

末端から動く習慣を中心から動く習慣へと変えていくことが、

上達のカギなのです。

 

回転運動を理解する

「回転で打つ」ということについては、

「回転運動」がどういうものかを理解する必要があります。

物体の運動を形容する言葉としては、

「落下」「加速」「直線」「リズム」などがありますが、

それぞれの条件というか要求される定義がありますよね。

例えば「落下」だと、

「地球の重力に引かれていること」がその条件です。

あるいは「加速」だと、

「徐々に速度が速くなっていること」がそれにあたります。

では、「回転」においては何がその条件となるでしょうか?

「直線」は「まっすぐなこと」だし、

「リズム」は文字通り「一定のリズムがあること」ですよね。

では「回転」だと・・・?

それは「回転軸があること」です。

つまり「回転運動」を行うためには、

「回転軸をつくればいい」のです。

ですが「回転で打てない」という場合、

問題はこの「回転軸」が無いか、

あってもすぐにブレてしまう点にあります。

そこでまずは、一番簡単に取り組める「スワイショウ」という運動から行います。

やり方は足幅を肩幅に開いて真っ直ぐに立ち、

爪先を正面に向けます。

次に、姿勢を崩さないまま身体の力を抜き、

身体の中心に意識を向けます。

その状態で腰を左右に捻転させると、

力の抜けた腕は勝手に振り回される。

注意点は、顔が下を向いたり重心が左右にブレないようにすること。

足裏と腰、頭の天辺を意識することで、

自分の身体の中心を垂直に通る軸を感じ続けたいのです。

 

スワイショウのススメ

理屈っぽい説明になりましたが、

「腰の回転で打つ」ということが何となくイメージ出来たでしょうか。

それは、「回転軸を崩さずに中心から動く」ことなのです。

注意深く読んでもらえると分かると思いますが、

「スワイショウ」を正しく行うことは、

「腰で打つ」ことと「回転で打つ」ことの両方に役立ちます。

もちろん実際の競技ではもっと複雑な動きが要求されますが、

だからこそ、基本的な運動の精度を上げる必要があるのです。

ぜひ、繰り返し取り組んでみて下さい。

 

 

 

脱力と3Dアート:10/12修練メモ

 

こんにちは、ワタルです。

今回は、「脱力と3Dアート」というタイトルで、

昨日の武颯塾大阪支部集中修練について、

簡単にまとめながら振り返っていきます。

 

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昨日の練習内容

武颯塾は「総合武術道場」と銘打っているのですが、

その練習内容は普通の人が考える「武術」から大きく離れています。

実際、昨日の修練において行ったことと言えば、

・腕の動かし方

・寝転び方

・歩き方

の3つだけですw

もちろん同じことを5時間以上もずっと行ったわけではなく、

例えば腕の動かし方であれば、

「上下」「前後」「左右」と方向を変えたり、

あるいは様々に負荷の掛け方を変えながら行います。

ただ、こうやって文章で書いてみると、

「何が面白いの?」

という疑問が湧いて当然だとも思います。

やっている当人としては面白くて仕方がないので、

ここに大きなギャップがあると常々感じています。

というか、歯がゆくてしょうがないw

そこでこのギャップがどこから生まれるのかについて少し考えてみました。

その答えの一つが「脱力と3Dアート」なのです。

 

3Dアートの思い出

私が中学生だった頃なので、もう20年以上も前になります。

「3Dアート」が描かれているという下敷きを、

クラスメイトの女子に見せてもらいました。

(こういう珍しいものは大抵、女子が持ってきますよねw)

それは一見すると何の意味もない模様なのですが、

目の焦点をずらすことで絵が浮かび上がってくるというものです。

近くの席の友達が集まって次々と下敷きを廻して試すのですが、

最初はなかなか見ることができません。

だんだん目が疲れてきて、

「もういいっ!!」

と、隣の席に渡してしまう。

ですが繰り返し挑戦していると誰かが、

「あっ、見えた!!」

と言いだし、そこからは次々とみんな絵が見えるようになる。

おそらく、多くの方が経験しているのではないでしょうか。

私も初めて絵が見えた時の驚きと嬉しさはなんとなく覚えています。

 

見える人と見えない人

そんな3Dアートの特徴は、

「目の焦点をずらす」という方法を知らない人にとっては、

ただの無意味な模様でしかないということです。

そこに別の何かが描かれていると教えてあげても、

その人が見ることができない限り、

「そんなものは描かれていない」

と言われるだけでしょう。

(もちろん一般的な知識として「3Dアート」を知っていれば、

自分が見えていなくてもアタマでは理解できるかもしれませんが。)

この、

「見える人にはとっては在るけれども、見えない人にとっては無い」

というところが「脱力」による力の特徴の一つなのです。

 

脱力と3Dアート

昨日の集中修練の内容は、

・腕の動かし方

・寝転び方

・歩き方

の3つだけだったと書きました。

これらを見て面白くないと感じるのは、

3Dアートにおける「意味のない模様」の方を見ているから。

今までの自分が何十年と繰り返してきた運動のやり方でこれらを見れば、

それはどう考えてもつまらない日常の繰り返しでしかありません。

けれども「脱力」による運動が少しでも実感できるようになると、

外見上は同じ運動に見えても、

中身は全く違ったものになります。

3Dアートに描かれているものは同じなのに、

見る人によって別のものが見えるように。

そこに脱力修練の醍醐味があるのです。

3Dアートは、見えない人にとっては無意味な模様しか描かれていない。

しかし見える人にとっては模様と同時に、

絵を発見する喜びも描かれている。

脱力による運動を学ぶことも同様に、

単なる日常動作の中に感動を発見する手掛かりとなるのです。