続・「立つ」ということ

前回から引き続き、
「立つ」ということについて考えていきます。

前回の記事において、
以下の通り問題提起しました。

「寝ている時や座っている時に比べて、立っていると疲れるのは何故か?」

そして、それぞれの姿勢における顕著な違いとして、
「1.重心の高さ」と「2.支持面の広さ」を挙げました。

この2点のうち、まずは「1.重心の高さ」が疲れにどう影響するのかを考えている途中、
というわけです。

前置きが長くなりすぎたので、
さっさと結論にいきましょう。

立っていると疲れる理由、それは、
重心位置を維持するために筋力を使ってしまうからです。

当たり前のことだと思いますか?

「重心位置」と言ってしまうと、
それを維持するための筋力は必要です。

しかし、
「重心の高さ」を維持するために筋力は必要ではないのです。

なぜなら、
重心の高さを維持する力は地面からの「抗力」だからです。

人の身体は70%が水分であると同時に、
200数個の骨によって支えられてもいます。

この骨が積み木のように重なることで、
重心の高さを維持しているのです。

ですから、骨格がその本来の役割を果たしている限り、
立つことに筋力は必要ないのです。

ところが、ここでもう一つの違いである、
「2.支持面の広さ」が問題になってきます。

立つという姿勢の難しさは、
重心の高さに対して支持面が狭いことにあります。

積み木を例に考えると分かりやすいです。

5センチ角の積み木を30個、
縦に重ねたところを想像してください。

不安定ですよね?

揺れないように支えていないと、
崩れ落ちてしまいます。

これと同じことが、
立っている人の身体にも言えます。

そして、揺れて崩れてしまうのを防ぐために、
重心位置を修正するのが筋力の役割なのです。

ここはとっても大切なところなので、
もう一度整理しておきます。

重心の高さを維持するのは、
あくまでも抗力(骨格)。

重心が前後左右に揺れるのを修正することが、
筋力の仕事。

このことを勘違いして、
重心の高さについても筋力を使って維持してしまう。

あるいは、重心が左右に揺れる前から、
筋力を使って固め続けてしまう。

これが、寝ている時や座っている時に比べて、
立っていると疲れる理由なのです。

では、疲れないように立つにはどうすればよいのでしょうか?

まずは力を抜いて、
重心を感じてみてください。

そして、骨格が「抗力」によって支えられていることを、
理屈だけでも構わないので思い出してください。

「筋力」から離れてみることではじめて、
今、ここにある「力」を感じることができるのです。

「立つ」ということ

今日は、「立つ」ということについて考えていきます。

いきなりですが、「立つ」という言葉に対して、
皆さんはどのようなイメージを持っているでしょうか?

・疲れる
・しんどい
・膝が痛い
・腰が痛い
・早く座りたい
・いや、とにかく横になりたい

ここまでひどくはなくても、
あまりいいイメージを持っていない方が多いのではないでしょうか。

私自身も、電車の座席が空いていたら、とりあえず座ります。
走ってまで座席を確保しようとは思いませんが(笑)

「立つ」と疲れる。
「座る」「寝る」と楽。

この違いは何なのでしょう?

それぞれの姿勢を比べたときに、
顕著に異なるのは以下の2点です。

1.重心の高さ
2.支持面の広さ

おそらくはこのどちらか、あるいは両方が、
それぞれの姿勢を取った時の疲れ度合を決めていると思われます。

ではまず、1について考えてみます。

重心の高さは、立っている時が最も高く、
寝ている時が一番低くなります。

寝ている時が一番楽で、
立っている時が最も疲れるのだから、
重心が高い位置にあるほど疲れる。

何となく正しい気もしますが、
本当にそうでしょうか?

寝ている状態や座っている状態から立つには、
重心を重力に逆らって移動させなければいけません。

この行為自体は確かに労力を必要としますので、
たしかに疲れるでしょう。

しかし、一度立ってしまえばどうでしょうか。

そこから重心を移動させる必要はありません。
ただ、その位置をキープし続ければいいだけです。

そう考えると、
立つことはそれほど疲れることではないはずです。

でも、確かに立っていると疲れる。
なぜなのでしょう?

(以下、次回へ右矢印

続・身体に任せる

「身体に任せる」というのは、
一体どういうことなのでしょうか。

練気武颯拳の修練における最初の段階では、
目的に合わせた「力の抜き方」を修練します。

例えば腕に重みを流すのであれば、
腕はもちろんのこと、肩や胸の力を抜きます。

脚に重みを流すときには、
膝や股関節の脱力が重要です。

まずはこのような効果的な「力の抜き方」を学ぶことで、
「力を抜いて力を出す」という感覚を身に付けます。

もちろんこれだけでも上手くなると、
筋力による力とは違う、

スムーズで無駄のない、
なおかつ「楽」な力を出すことができます。

ただ、この段階においては、
「今の自分」が力を抜いているだけなのです。

「力を入れる」というやり方を、
「力を抜く」というやり方に変えただけ。

「脱力」を「筋力」と並列において、
「使い勝手がいい方を使おう」という発想です。

それだと、「今の自分」は何も変わっていません。

練気武颯拳における「脱力」とは、
その程度のものではありません。

「今の自分」=「自我」をそのままにしてより合理的なものを選ぶ、
というものではないのです。

人の身体はとてつもなく複雑で、
この上なく精巧にできています。

数十兆の細胞が組織を作り、
それらが有機的につながって働く。

運動器だけを取ってみても、
200余の骨と数百の筋肉が連動して動くのです。

それを「今の自分」、
これは「自我」、「エゴ」、「顕在意識」など様々な呼び方がありますが、

そういったものでコントロールして動かそうということ自体、
ナンセンスなことなのです。

もちろんそんなやり方でも身体は動いてくれます。
私自身、残念ながら現在に至るまでそこを抜け出せません。

しかしそれは、途方も無い身体の可能性に対して、
「自分で限界を作っている」ことに他ならないのです。

ということは逆に言えば、「身体に任せる」ことが、
「自分で作った限界を取り去る」ことにつながるのです。

現在の練気武颯拳の修練においては、
身体から自分の思いを外すこと、

すなわち、
「身体に任せる」ことを主眼に置いて修練しています。

そこでは技をかけたという「結果」ではなく、
どのように力が働いたのかという「過程」が、

そして技をかけるという「行為」よりも、
その時の自分や相手を「観察」することが重要になります。

そう、「身体に任せる」ことは、
「観察者になる」ことなのです。

身体に任せる

練気武颯拳の修練の基本は、
「脱力」することです。

そのこと自体は私が修練を始めた当初より変わっていないのですが、
修練内容はますます深いものになっています。

過去の修練におけるテーマを見ていくと、

1.屈筋主導から伸筋主導へ
2.身体中心の確保
3.固体発想から流体発想へ
4.重力を力として使う

といったものが挙げられます。

今でもテーマになるものもあれば、
全く触れられないものもあります。

特に1の「伸筋主導へ」という修練は、
随分前から全くしなくなりました。

屈筋だろうが伸筋だろうが、
「筋力発想」には変わりないですからね。

逆に3の「流体」については、
常にテーマになり続けています。

外圧に対して身体を固めてしまう習慣は、
弱くはなりますがなかなか消えてくれません。

2の「身体中心の確保」については、
現在は「合成重心」というテーマに進化しています。

自分だけの中心ではなく、
自分と相手とを一つのものとして捉えた時の中心を感じ取ります。

4の「重力を力として使う」ことにおいても、
今では「重力と抗力」の両方に焦点を当てて修練しています。

そして、現在の修練においてもっとも大切なのが、

5.身体に任せる

ということです。

(以下、次回へ右矢印

重心

3日間の武颯塾東京合宿において、
私が一番の収穫だと感じているのが、

「重心」

についての理解が深まったことです。

ちなみに「重心」をウィキペディアで調べてみると、

「重心(じゅうしん、英語:center of gravity)とは、
力学において、空間的広がりをもって質量が分布するような系において、
その質量に対して他の物体から働く万有引力の合力の作用点。」

とありました。

これを地球上における人体に当てはめると、

「身体における重力の合力の作用点」

ということになるでしょう。

そして地面の上で姿勢を保持している以上は、
地面からの「抗力」が「重力」と拮抗しています。

したがって言い方を変えると、
重心とは、

「身体に働く重力(の合力)と抗力(の合力)が拮抗する点」

だということになります。

私は残念ながら物理の成績が悪かったので、
定義として正しい言葉を使えているかどうかはわかりませんが、

身体感覚的な理解として、
以下のようなことをお伝えしたいのです。

「重心に向かって力を抜けば、体の重さを感じなくなる」

地球上である姿勢を保持している以上、
そこには必ず「重力」と「抗力」が働いているのです。

あえて自分で何かをしなくても、
もうすでに「力」は存在しています。

ただ、それが当たり前すぎて、
「力」として認識できないのです。

そして、当たり前でないものを求めて、
「力む」ことが「力を出す」ことだと思ってしまうのです。

だから、「力を抜く」というと、
ほとんどの人が姿勢の悪い「腑抜け」の状態を想像します。

でも、本当は違うのです。

「重心」を知覚する。
「重心」に向かって力を抜く。

「重心」がその人の現時点での姿勢においての、
「重力」と「抗力」が拮抗する点である以上、

「重心」に向かって力を抜いて、
姿勢が変わることはないのです。

そうではなく、
「その姿勢における必要最小限の筋収縮でいる」ことが、
「重心」に向かって力を抜くことなのです。

このことが理解できると、
今までいかに無駄な力を使って生活していたのかがわかります。

自分で自分を不自由な状況に追い込んでいたのです。

それを、やめる。

そして、今、ここにある「力」に気づく。

それが練気武颯拳の修練だと、
今回改めて感じました。

「歩く」ことの難しさ

12月3,4,5日は、
武颯塾東京本部道場での冬期合宿に参加してきました。

私が武颯拳を習いだしてから初の冬期合宿。
しかも道場に2泊。

980円の寝袋で本当に眠れるのだろうか?
早朝の修練は寒さに震えながらするのかな?

そんな心配も多少あったのですが、
全くの杞憂に終わりました。

道場のエアコンはしっかりと働いてくれたし、
朝の寒さも随分と和らいでいました。

そんな恵まれた条件もあって、
集中して取り組むことができた今回の合宿。

修練においても多くの気づきを得ることが出来ました。

その中でも最も印象に残ったのが、
「歩く」ということの難しさです。

何らかの理由で歩けない人を除けば、
これほど一般的な運動もありません。

毎日数千回以上、
日常的に繰り返しています。

当然のことながら、
普通は歩くことが「難しい」とは思わないでしょう。

ところが。

修練をしていると気づくのです。

歩くことが意外と「難しい」ということに。

もちろん、ただの移動手段として歩くことを捉えると、
それほど難しいものではありません。

ですが、歩くという行為の本来的なプロセスと、
そこから生み出される途方も無い力の一端に触れてしまうと、

俄然認識を改めざるを得ません。

歩くことは、「難しい」。

言い方を変えれば、
「高度な運動」だということです。

まずは、自分の重心に身体を任せきる。
そして、身体を任せ切ったままの重心を動かす。

歩くという動作のどの段階においても、
重心の移動がブレず途切れず行われる。

それができると、
前から力いっぱい押さえられてもスススッと進めるような、

押している側にすると、
「地面を押している」としか思えないような力が働くのです。

修練の形としては、
「取り」が片足に完全に重心を載せた状態で、
もう一方の足を前に出します。

その形のまま両手を前に出して、
そこを「受け」が両手でしっかりと押さえます。

「取り」はその状態から、
重心だけを前に進める意識で歩き出します。

上述したような重心移動が正しくできていれば、
地面からくる前方への力が発揮され続けます。

歩いているどのタイミングで押さえられても、
同じように進み続けられるのです。

このような修練を3日間、
みっちりと行ってまいりました。

客観的に観ると大変地味な修練なのですが、
今までの自分では考えられないような、

質の違う、大きくて、それでいて楽な「力」が、
体の中を通っていく感覚は、

それだけで何とも言えない喜びを感じさせてくれます。

流体

12月1日の武颯塾大阪支部における修練日の記録です。
先月に引き続き、推手がテーマ。

肩や腕を様々な方向に押されたり引かれたりする、
という形の修練を行いました。

相手の力に対して頑張って抵抗するのは論外。
ただ力を抜いていなすだけでも不充分。

相手の力をどうやって自分の力として使うかが課題。
相手の力を、自分の力だと正味感得したいのです。

その為にはまず、
抵抗している自分に気付く必要があります。

自分が力を加える時。
外から力が加えられた時。

身体を固めて土台をつくることが、
根強い習慣として染み付いています。

いわゆる「居着く」というやつですね。
まずは、そこを変えたい。

身体を個体としてではなく、
流体として扱う。

そして、流体で居続ける。
それが、今の修練テーマです。

明日から、本部道場での合宿。
3日間、楽しんできます。

修練の方向性

差別化、細分化、分離、分割、境界、制限、ルール、マニュアル

から、

共有、包括、包含、統合、融合、自由、解放

へと向かって。

意識の枠組みが、拡がっていく。

力を抜いて、力を感じる。

ただ、此処に、いる。