10月23日の武颯塾大阪支部集中修練日誌の続きです。
練気武颯拳
今月のテーマである寝技の修練において今回取り上げられたのは、
「極められた手首と腕を返す」というものでした。
まずは一人が正座となり、
もう一人が斜め後ろから片手で手首を極めて、
もう片方の手で腕を抑えます。
刑事ドラマなんかでたまに見られる形ですね。
そこから手先へと「重み」を流して手首を返すのですが、
当然相手の方が力を入れやすい体勢のため、簡単には返りません。
無理に力で返そうとすると、
逆に関節の極まりが強くなり、一層痛くなります。
そこで「力を抜く」わけですが、
ただやみくもに腑抜けてしまうとどんどん体勢が悪くなっていきます。
相手の力を感じ、自分の身体の中をどのように通っているのか、
その力を地面のどこで受けているのかを認識する必要があります。
この、「力を抜く」「認識する」という作業が、
武颯拳の修練の根幹だと感じます。
関節を極められているとはいえ、
動きが止まって耐えている以上、
そこで力は拮抗しているのです。
相手の力と、それに拮抗している力。
(あえて自分の力とは書きません)
それぞれが、どこからどのように流れているのか。
それさえ感じられれば、あとは流れに乗ればいいのです。
ですから、「力を抜いて力を認識する」ことが、
「力を抜いて力を出す」ことにつながります。
修練はその後、うつ伏せになった状態で腕と手首を返しました。
ここでは、「接地面全体を使って地面を押す」という感覚をつかみました。
うつ伏せになっているのですから、
身体の前面ほぼすべてが接地面になります。
その身体前面をまるごと使って地面を押すのですが、
これが意外と難しい。
「自分の身体全体を意識する」ということが、
実はなかなかできないのです。
手を使うときは手を、脚を使うときは脚を、
それぞれ「部分」として認識して使ってしまう。
自分の身体の「地図」が実は破れて空白だらけだということが、
この修練で理解できます。
逆に言えば、この「地図」が一通りそろって身体全体を描くようになると、
身体を部分で使わなくなります。
腕を使おうが脚を使おうが、
「全体」としての力が働くのです。
武颯拳の時間の最後はプロレスで言う「手四つ」の形で行いました。
相対で組んで指を折るような感じですね。
これも、「地面を踏む」ことで生じる力が指先へと流れます。
それによって、手先で行うのとは異質の強さになります。
「身体を一つのものとして扱う」
これが、今回の修練で得た気付きでした。
(以下、次回へ)