自分のカラダから手を引く

 

こんにちは、ワタルです。

今日は、「自分のカラダから手を引く」ということについて書きます。

これは「脱力」という修練の本質に連なるものであると同時に、

自分が本来持っている能力に気づくための大きなヒントになる考え方です。

 

[ad#co-1]

 

最近の修練において、どういう感覚の時に上手く動けているかを考えると、

より自分で何かをやっている感覚が少ない時だと感じます。

自分で必死に掛けようとした技が掛からないのに、

何気ない感じで動いたら相手が倒れている。

武道をある程度やった人の多くが経験していることでしょう。

いや、特に武道に限った話ではないですよね。

私は中学、高校とサッカーをしていました。

ドリブルでスパッと相手を抜けた時や、

スルーパスをストンと通せた時などは、

今思えば同じような感覚だったと思います。

必死に動いたフェイントがバレバレだったのに、

咄嗟に出した動きには相手が勝手につられてしまう。

そんなことが、ごく稀にあったことを覚えています。

ただ残念なことに当時の私には、

それを再現するための方法論がありませんでした。

 

武颯塾に入門した当時も今も、

私自身には運動のセンスと呼べるようなものはほとんど無いと感じています。

ただ、幸いなことに師範から技を掛けてもらう機会を多く頂いたことで、

「本来の力がどういうものか」

ということを何度も経験できました。

そしてそれを少しずつ理解するにつれて、

「あの時」何が起きていたのかが分かり始めたのです。

私のサッカーの例で言えば、

キーワードになるのは「咄嗟に」とか「勝手に」という部分。

つまり、「自分のアタマで考えてやってない」ということです。

自分の「アタマ」で考えて身体を動かそうとすると、

どうしても不合理な動きになってしまいます。

それは私たちが「力」というものを正しく認識できていないから。

けれども「カラダ」という物理的な存在には、

認識の有無に関わり無く物理法則が働いています。

ですから見えていない「アタマ」が余計な命令を出さなければ、

つまり「咄嗟に」とか「勝手に」動いた時、

「カラダ」はその物理法則に沿った動きを行うのです。

 

だとすれば、普段から「咄嗟に」とか「勝手に」動ければ、

それはかなり合理的な動きに近づけるわけです。

けれどもそれは、

普段の動きの中で狙ってできるものではありません。

思いがけない時に出るからこそ、

「咄嗟に」や「勝手に」という言葉がつくのですから。

そこで、より意図的に自分の関与を減らしていく、

カラダから手を引いていくことが、

上達への近道だと考えられるわけです。

でもコレって、今まで正しいと思ってきたことと、

人によっては間逆だと感じるかもしれません。

普通の運動においては、

より自分のカラダへの関与を増やす方向で練習します。

より強く、より速く、より正確に、より精密に。

そうやってカラダに対する自分の所有権をより確実なものにすることが、

一般的な意味での運動の上達だと思われています。

ところが脱力修練においては、まったく逆のアプローチを取ります。

自分のカラダから手を引くことで、

より「咄嗟に」「勝手に」出た動きに近づいていく。

そこには今まで考えられてきたような、

「センス」や「才能」は必要ありません。

ただ、意図的に力を抜いて動くことと、

その時に何が起きているかを感じることだけが求められているのです。

そういう意味では「運動が苦手だと思っている人」にもぜひ、

真剣に取り組んでみて欲しいと思っています。