前回の記事において、
断言してしまいました。
「力みによって得られるものは『実感』であり、
ほとんどの人は、『実感』を得ることを、何よりも優先してしまう」と。
今回はこのことについて考えていきます。
まず、「力み」によって「実感」が得られることについてですが、
これについては簡単に理解できると思います。
試しに、「力こぶ」を作ってみてください。
そう、上腕二頭筋をギュッと収縮させるのです。
すると、感じられると思います。
「今、ここに私の腕が確かにある」という「実感」が。
ウェイトトレーニングをしたことのある方は、
よりわかりやすいと思います。
ウェイトを上げるために、
目的の筋肉にグッと力を込める。
そして、自分の限界まで力を出した時に感じますよね。
「ああ、よく頑張ったな俺(私)」って。
もちろんこれは極端な例ですが、
「力み」によって「実感」が得られるということはわかってもらえると思います。
次に、この「実感」を得ることが、
他の何よりも優先される理由について考えます。
もう一度ウェイトトレーニングを例にみてみましょう。
例えばあなたが、
ベンチプレスで100kgのウェイトを挙げたとします。
人によっては軽々と挙げるかもしれませんが、
多くの人にとっては渾身の力を振り絞って挙げるでしょう。
いずれにせよそこには確かな「実感」、
言い換えると「手応え」があります。
この「手応え」があるからこそ、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと認識できるのです。
ではもし、この「手応え」が無かったとしたら?
見た目には確かに100kgと書いたウェイトが挙がっています。
ガチャガチャという音もしています。
でも、「手応え」は全く感じられません。
この状態であなたは、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと思えますか?
思えないはずです。
それが「軽い」にせよ「重い」にせよ「手応え」として感じられるからこそ、
「あなたが」ウェイトを挙げたことになるのです。
これは、武術の技においても同じことが言えます。
練気武颯拳の技はすべて、
「脱力」によって掛けます。
ですが、本当に「脱力」による技を掛けたときは、
今まで感じていた「手応え」は全くないのです。
そんな状態で技を掛けた時に、
感じることができるでしょうか?
「私が」技を掛けた。
「私は」相手より強い。
感じられませんよね。
なぜなら「手応え」という「実感」が無いのですから。
つまり、
翻ってみると、
「実感」があるからこそ、
「私が」「あなたが」何かをしたと言えるのです。
この、何かをする「私」「あなた」こそが、
「自我」と呼ばれるものだとすれば…
そう、
「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」
のです。
次回はこのあたりについて考えてみたいと思います。
(以下、次回へ)