「思考」「感情」「感覚」

少し前の記事で触れた、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

という仮説について、
さらに踏み込んで考えてみます。

そもそも、
『自我』とは一体何なのでしょう?

心理学的な正しい定義は残念ながら知りませんが、
大雑把な感覚で言うと、

「私が私である」

と認識する働きが『自我』である、
と言えるのではないでしょうか。

「『私』と『私以外』を区別する働き」
と言ってもいいかと思います。

この働きを形作るものは幾つか考えられますが、
主になるのは以下の3つだと考えます。

「思考」「感情」「感覚」

この3つが相互に影響しあうことで、
『自我』として存在するのです。

この3つの関係について思い切り簡略化した説明をすると、
以下のようになります。

1.身体内外の情報を「感覚」として知覚する。

2.知覚した情報に対する反応として、「思考」が湧く。

3.「思考」の内容に応じて「感情」があらわれる。

4.「思考」「感情」に合わせて身体状況が変化し、「感覚」が変化する。

5.変化した「感覚」を知覚して、さらに「思考」が湧く。

6.以下、繰り返す。

もちろん実際にはこんな単純なものではないでしょうが、
イメージとしては概念しやすいかと思います。

(以下、次回へ右矢印

「『武術』を使った『脱力』の修練」(続々々・人はなぜ「力む」のか?)

ここ3回にわたって、

「人はなぜ力むのか?」

をテーマに考えてきました。

そしてたどり着いた考えが、

「『力み』が『実感』を生み出す」

ということ。

そして、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

ということなのです。

つまり、

「『自我』が存在し続けるために力んでいる」

ということが言えると思います。

そう考えると、
「力み」がいかに根源的な欲求に根差したものかがわかります。

日々「脱力」の修練をしていても、
思い通りに進まないわけも理解できます。

なぜなら「私が」上手く技を掛けるために、
「脱力」をしようとしているからです。

ここまで3回の記事を読んでくださった方であれば、
これがいかに矛盾した行為であるかがお分かりでしょう。

「私が」という「自我」が存在するためには、
「力み」による「実感」が必要なのです。

これでは、いくら「脱力」しようとしても、
根本的な「力み」が無くなるはずがありません。

車のブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなものですから。
もしかすると、サイドブレーキも引いたままかもしれません。

そこで、自分自身の修練の方向性を見直すことにしました。

これまでは、

「『脱力』を使った『武術』の修練」

をしていました。

これからは、

「『武術』を使った『脱力』の修練」

をしていきます。

「『私が』技を掛ける」修練から、「技を掛ける」修練へ。

今回いろいろと考えることで、
練気武颯拳の修練がより一層楽しくなりました。

自我の存在証明としての『実感』(続々・人はなぜ「力む」のか?)

前回の記事において、
断言してしまいました。

「力みによって得られるものは『実感』であり、
ほとんどの人は、『実感』を得ることを、何よりも優先してしまう」と。

今回はこのことについて考えていきます。

まず、「力み」によって「実感」が得られることについてですが、
これについては簡単に理解できると思います。

試しに、「力こぶ」を作ってみてください。
そう、上腕二頭筋をギュッと収縮させるのです。

すると、感じられると思います。
「今、ここに私の腕が確かにある」という「実感」が。

ウェイトトレーニングをしたことのある方は、
よりわかりやすいと思います。

ウェイトを上げるために、
目的の筋肉にグッと力を込める。

そして、自分の限界まで力を出した時に感じますよね。
「ああ、よく頑張ったな俺(私)」って。

もちろんこれは極端な例ですが、
「力み」によって「実感」が得られるということはわかってもらえると思います。

次に、この「実感」を得ることが、
他の何よりも優先される理由について考えます。

もう一度ウェイトトレーニングを例にみてみましょう。

例えばあなたが、
ベンチプレスで100kgのウェイトを挙げたとします。

人によっては軽々と挙げるかもしれませんが、
多くの人にとっては渾身の力を振り絞って挙げるでしょう。

いずれにせよそこには確かな「実感」、
言い換えると「手応え」があります。

この「手応え」があるからこそ、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと認識できるのです。

ではもし、この「手応え」が無かったとしたら?

見た目には確かに100kgと書いたウェイトが挙がっています。
ガチャガチャという音もしています。

でも、「手応え」は全く感じられません。

この状態であなたは、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと思えますか?

思えないはずです。

それが「軽い」にせよ「重い」にせよ「手応え」として感じられるからこそ、
「あなたが」ウェイトを挙げたことになるのです。

これは、武術の技においても同じことが言えます。

練気武颯拳の技はすべて、
「脱力」によって掛けます。

ですが、本当に「脱力」による技を掛けたときは、
今まで感じていた「手応え」は全くないのです。

そんな状態で技を掛けた時に、
感じることができるでしょうか?

「私が」技を掛けた。
「私は」相手より強い。

感じられませんよね。
なぜなら「手応え」という「実感」が無いのですから。

つまり、
翻ってみると、

「実感」があるからこそ、
「私が」「あなたが」何かをしたと言えるのです。

この、何かをする「私」「あなた」こそが、
「自我」と呼ばれるものだとすれば…

そう、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

のです。

次回はこのあたりについて考えてみたいと思います。

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「力み」によって得られるもの(続・人はなぜ「力む」のか?)

「そもそも、なぜ人は力んだ不合理な動きをしてしまうのか?」

練気武颯拳を修練するうえで、
避けては通れない疑問です。

この疑問を解くためには、

「力むことで、一体何を得ているのか?」

について考える必要があります。

脱力修練をしたことのない人にとっても、
「力みを取る」「肩の力を抜く」ことの効果は理解できると思います。

それでもなお力んでしまうのは、
力むことで「何か」を得ているからなのです。

そしてその「何か」は、
ほとんどすべての人にとって、
かけがえのないくらい大切なものなのだということ。

脱力して目を瞠るほどのプレーをしたり、
達人のような技をかけること。

あるいはリラックスして居心地の良い人間関係を築いたり、
誰もが驚くような仕事の成果をあげること。

それよりも優先されるべき「何か」を得られるからこそ、
人は力んでしまうのです。

素晴らしいパフォーマンスや清々しい気分。
それらを犠牲にしてまで得たい「何か」とは?

…あまり引っ張っても仕方がないので、
サラッと言っちゃいます(笑)

その「何か」とは、
「実感」のことなのです。

こう書いてしまうと、
ほとんどの人は拍子抜けしてしまうかもしれません。

「私はそのようなものよりも、結果を求めている」
とおっしゃるのではないでしょうか。

しかし、それでも断言してしまいます。
「ほとんどの人は、実感を得ることを、何よりも優先してしまう」と。

次回はそのあたりについて考えていきます。

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人はなぜ「力む」のか?

練気武颯拳の修練を続けていると、
数多くの疑問に突き当たります。

それらを師範に尋ねると、
ほとんどの場合は丁寧に教えて頂けます。

ところが質問によっては、
「あえて答えは言わない」という場合があります。

今回はそんな疑問の一つである、

「そもそも、なぜ人は力んだ不合理な動きをしてしまうのか?」

について考えてみます。

練気武颯拳で教わる「脱力」による合理的身体運動は、
そもそも本来誰もができるものであり、

それを妨げている不要な「力み」を取り除けば、
今すぐにでも「達人」になれるはずなのです。

ところが、現実はそんなに簡単ではありません。

力を抜いて技を掛けようとしても、
様々な「思い」が湧き上がってきて力んでしまう。

今日は上手く掛かったと思っても、
あくる日には全然上手く掛からない。

修練生の方なら、皆さんが感じておられることでしょう。

脱力が合理的な身体運動を生み出すということについては、
私の10年ちょっと程度の修練期間でさえ経験済みなのに。

力を抜いたほうが、楽に、しかも上手くいく。

それにもかかわらず、力んでしまう。

誰に教えられたわけでもないのに。

なぜなのでしょう?

ここにはきっと、自分では意識していない、
大きな「理由」があるはずなのです。

(以下、次回へ右矢印

忘れる力

最近の練気武颯拳の修練は、

「思いを手放す」

という方向に向かっていると感じます。

今、自分が考えていること、

あるいは考えさせられていることを、

スパッと止めてしまう。

これは、口で言うほど簡単ではありません。

「朝、出勤時に嫌なことがあると、一日中気分が乗らない。」

という経験は誰にでもあると思います。

その「嫌な思い」を、手放してしまう。

嫌な思いに囚われるのではなく、

無理にポジティブに考えるのでもなく、

ただ、手放してしまう。

私自身、こういう修練を始めたばかりなので、

なかなか上手くいかないことも多いのですが、

続けているとフッと思いが消える瞬間が確かにあります。

その時の心地よさは、

正直何物にも代えがたいと感じます。

このために今まで修練をしてきたといっても過言ではありません。

それくらい、「思い」とは「重い」ものなのです。

だから、手放してしまう。

早い話、忘れてしまえばいいわけです。

そうはいっても、

「覚えているものを忘れる」

というのはかなり難しいですよね。

だから、練習が必要なのです。

練習して「忘れる力」を磨くことが、

毎日を快適に過ごす秘訣なのです。

日々のストレスが心身に与える影響が大きいことは、

皆さんもご存じのとおりです。

しかし、同じような環境においても、

元気な人もいれば疲れている人もいます。

その違いはどこにあるのでしょうか?

適度なストレスは、

充実した生活を送る上で、

必要不可欠なものです。

ただ、それを自分の中に溜め込んでしまうと、

マイナスの影響が出てしまうのです。

だったら、忘れてしまえばいい。

それもできるだけ早く。

「忘れる力」、鍛えませんか?

「思い」を手放す

1月29日の武颯塾大阪支部集中修練に参加してきました。

練気武颯拳、練気杖術ともに充実した修練内容だったのですが、
最も印象的だったのは、練気柔真法の時間でした。

この時間の修練は「基礎の基礎」といった感じのことだけを徹底して行います。

今回は「腕を掴まれて持ち上げられる」、
「腕を掴まれた状態で相手を動かす」といったことを、
掴む人数を1人、2人、4人と増やしながら行いました。

もちろん、ただ持ち上げられなかったり動かせたりすればいいというわけでなく、
修練の都度、師範から意識するポイントを指示してもらいます。

では今回指示してもらったポイントは何かというと…

「何もしないこと」です。

腕を持ち上げられるときにも、相手を動かすときにも、
とにかく「何もしない」ということを要求されるのです。

これが本当に難しい。

当たり前ですが、師範の腕は持ち上げられないし、
いとも簡単に4人を動かしてしまいます。

ところが同じことを私たちがやろうとすると、
「持ち上げられないように」「動かそうと」してしまうのです。

それを、やめる。

「持ち上がらない」「動かす」という目的意識を持ったら、
あとは自分に起きていることを観察し続ける。

すると、身体が動き出します。
元々誰もが持っている自然な動きで。

この動きを生じさせている力は、
私たちが普段認識している力とは全く質の異なるものです。

このように身体の自然に身を任せて、
この「力」をいつでも自在に使えるようになった人のことを、

練気武颯拳においては「達人」と呼びます。

そうなるためには、話は戻りますが、
自分を観察し続けなければなりません。

「何かをされる」、あるいは「何かをする」時に生じる、
「思い」を手放す必要があるのです。

ここに練気武颯拳の修練の面白さと、
難しさがあります。

ただ、腕を持ち上げられるだけなのに、
そこにはものすごい葛藤が生じます。

自分の中で、
様々な思いがムクムクと湧き出てくるのです。

N先輩の言葉を借りれば、
「濃密なドラマがある」のです。

そして振り返ってみると、この「ドラマ」「葛藤」は、
修練に限らず日常のどこにでもあります。

そういう意味では練気武颯拳の修練は、
「日常に活きる」修練だと改めて思います。

続々・「重心移動」について

前回の記事で、
練気武颯拳で修練する重心移動とは、

「重心から移動すること」である、
と書きました。

では、どういった修練をすれば、
「重心から移動すること」が出来るようになるのでしょうか?

「重心から移動する」ためには、
「重力」と「抗力」を感知することが必要です。

ところが、「重力」も「抗力」も、
その存在があまりにも当たり前すぎて認識することが難しい。

「空気」なんかと同じように、
無くなって初めて気づく類のものなのです。

そこで、いくつかの修練を並行して行っていくのですが、
その一つに骨盤や股関節を明確に意識できるようになる修練があります。

骨盤を様々な方向に旋回させたり、
胴回りの力を意図的に抜くことで、
骨盤や股関節を意識しやすくしていきます。

そしてある程度骨盤周りが意識化できるようになると、
そこから動き出す修練を行います。

「重心から移動する」の前段階として、
「より重心に近いところから移動する」わけです。

もちろんこれだけではなく、
「重力」や「抗力」をより感じられるようになるための修練も、
併せて行っていきます。

そしてここが一番重要な所ですが、
それらの修練は全て相対でチェックしながら行います。

一人では認識しづらい感覚の修練を相対で行うことで、
どちらかが気づけば上達することができます。

武颯塾においてはこういった修練によって、
「重心から移動する」ことを目指しています。

続・「重心移動」について

前回に引き続いて、
「重心移動」について考えていきます。

「重心を移動させる」動きと「重心から移動する」動きは、
一体何が違うというのでしょうか?

「重心を移動させる」動きは、
多くの方にとってなじみ深いものだと思います。

歩いたり走ったりするときに、
「つま先で地面を蹴る」というのがその典型です。

筋力を使って何かを押したり引いたりすることで、
身体を移動させる。

その結果として重心を移動させる動きが、
「重心を移動させる」動きなのです。

では、「重心から移動する」動きとは、
どのような動き方なのでしょう。

このことを理解するためにはまず、
「重心」について理解しなければなりません。

以前の記事でも触れましたが、
「身体に働く重力(の合力)と抗力(の合力)の作用点」
が身体の重心であると言えます。

つまり「重心」においては、
すでに様々なベクトルの「力」が働き続けているのです。

この「すでに働いているベクトル(=重力と抗力)」によって移動することが、
「重心から移動する」ということなのです。

ここで整理しておきましょう。

「重心を移動させること」=筋力による移動
「重心から移動すること」=重力と抗力による移動

練気武颯拳で修練する「重心移動」とは、
「重心から移動すること」を指しているのです。

「重心移動」について

(文字の大きさを変えてみました。)

先日のブログ記事http://ameblo.jp/musou-kobe/entry-11130660768.htmlで、
「重心移動」についての気づきがあったと書きましたので、
今日はそのことについて考えてみます。

スポーツの世界ではよく耳にしますよね、
「重心移動がしっかり出来ている」とか「出来ていない」とか。

確かに「出来ている」と言われる人は上手く動いているように見えるし、
「出来ていない」と言われる人はなんだかぎこちない感じがします。

でも、「重心を移動させる」だけであれば、
ほとんどの人は出来ているはずですよね?

歩くことも走ることも、寝返りを打つことだって、
重心を移動させることに違いはないのですから。

それなのに、「重心移動」が出来ている人と、
出来ていない人がいる。

なぜなのでしょうか?

この疑問を解くカギは、
「重心移動」という言葉の捉え方にあります。

「重心移動」=「重心を移動させること」と捉えると、
それはほとんどの人が問題なくできることだと言えます。

では、
「重心移動」=「重心から移動すること」と捉えるとどうでしょう?

一見すると、大した違いではないように感じるかもしれません。
ただの言葉遊びだと思われる方もいらっしゃるでしょう。

ですが、ここには絶対的な違いがあるのです。

(以下、次回へ右矢印