続々・他人に対する無意識の要求を手放す

「何かを期待して、それが達成されない」

という状況に対して人はストレスを感じやすい、
と前回の記事で書きました。

そして人間関係のストレスの多くは、
これが原因だと考えています。

つまり、

「他人に対して何かを期待、あるいは要求している」

ことが対人関係のストレスを生んでいるのです。

しかもこの他人に対する要求を、
「無意識」に行っている場合の方がストレスは大きいのです。

なぜなら、実際に人に何かを要求してしまえば、
その行為自体がガス抜きになります。

さらに要求が通らなかったとしても、
別の形で再度要求を出すこともできます。

前回の例で言えば、
会社の同僚が電話に出てくれない状況で我慢しているよりは、

「あなたも電話に出て欲しい」

と言った方がストレスは少ない。

前から歩いてくる人が邪魔だったら、

「道をあけてください」

と言えばいいのです。

しかし、他人に対する要求を自分自身が正しく認識できていないと、
それを形にすることができません。

まずは「他人に対する無意識の要求」に気づきそれを形にすることが、
人間関係を良くするための第一歩なのです。

もちろんそれだけで円滑なコミュニケーションが取れるかというと、
そうではありません。

自分の要求を形にするだけでは、

「わがままな人」

と思われてしまうでしょう。

自分の中の無意識の要求に気づいて形にすることは大切ですが、
それは結局、自分のストレスを他人に転嫁しているだけですから。

そこで次の、

「自分の中の他人に対する要求に気づいて形にする」

と同時に、

「その要求が通るかどうかは気にしない」

というステップが必要になるのです。

相手に対して自分の要求を出すことはした方が良いけれども、
どうしてもその要求を通そうなんて思ってはいけない。

自分が異性に告白されたところを想像してください。
たいした付き合いもない状況で、

「どうしてもあなたじゃないとダメなんです」

なんて言われたら気持ち悪いですよね。

こんなのは相手を好きなのではなくて、
自分の感情に執着しているだけなのです。

要は、自分の要求に執着するなってこと。

これは口で言うほど簡単ではありませんが、
本当に重要なポイントだと思います。

わがままで周りを振り回す人、
引っ込み思案で言いたいことを言えない人、

どちらも自分の要求に執着しているという意味では同じなのです。

結局のところ、
他人に対する無意識の要求に執着している限り、
人間関係のストレスが無くなることはないのです。

そこで、

「他人に対する無意識の要求を手放す」

というわけです。

長くなりましたがやっと本題にたどり着けました(笑)

これができると本当に、
生きることが楽で楽しいものになると思います。

なぜなら人間関係におけるストレスが激減するだけでなく、
自分自身に対する不必要な要求や制約からも自由になるからです。

他人に対する無意識の要求は、
自分に対する要求でもあります。

他人に対して「遅刻してはいけない」と言っている人は、
自分に対しても「遅刻してはいけない」と言っているのです。

ですから、

「他人に対する無意識の要求」

を手放すことは、

「自分自身に自由を与える」

ことになるのです。

長々と書き連ねてきましたが、
まずは私自身が少しでも実践できるよう、
修練に励みたいと思っております。

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続・他人に対する無意識の要求を手放す

昨日の記事で書いた、

あなたの進行方向にある電信柱と、
あなたの進行方向から歩いてくる人を、
おなじように避けることができますか?

という質問について、
自分の心に正直になって考えてもらえましたでしょうか。

おそらく多くの人にとって、
電信柱と人を同じように避けることは出来ないと思います。

もちろん物理的には、
ただ避ければいいだけです。

止まっている電信柱と動いている人という違いはあっても、
避けきれないほどのスピードで歩いている人はいないと思いますから(笑)

それでも、
心理的な側面から見ると大きな違いを感じるはずです。

その大きな違いとは一体どのようなものでしょうか。

それは、

「電信柱が道を避けることを期待はしないが、
歩いてくる人に対しては避けることを期待している」

というものだと考えます。

ほとんどの人は電信柱に向かって

「邪魔だから道をあけろ!」

とは思わないですよね。

そんなこと思っても、
出来るわけありませんから。
(たまーに電信柱に怒っている人もいますが…)

ところが歩いてくる人が相手だと、

「あなたが道を譲ってよ」

と思ってしまうのです。

なぜなら自分が道を譲ることもできますが、
相手も同じようにできると無意識のうちに思うからです。

これは何も、
道を歩いている時に限ったことではありません。

オフィスで電話が鳴った時。

もちろんあなたも電話に出ることができますが、
隣の同僚がでても構わないはず。

なんだったら、
明らかに暇そうな部長が出てくれてもいいじゃない。

なんて思うこと、
ありませんか?

毎日をこんな感じで過ごしていたら、
それはストレスも溜まりますよね。

そのストレスはなぜ生まれるのかというと、

「他人に対して何かを期待、あるいは要求しているから」

ではないでしょうか。

オフィスであなたの隣にいるのが観葉植物だったなら、
何も考えることなく電話に出るはずです。

観葉植物に要求することは電話に出ることではなく、
居心地のいい空間を提供してくれることですから。

「何かを期待して、それが達成されない」

という状況に対してこそ、
人はストレスを感じやすいのです。

(以下、次回へ右矢印

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他人に対する無意識の要求を手放す

昨日の記事で、

「自分以外の人を変えることは出来ない」

ということを書きました。

いかに正しい理屈をもって伝えても、
あるいは感情を思い切りぶつけたとしても、
人を変えることなんてできない。

逆に、自分の言いたいことを言わず、
当たり障りのない八方美人を演じても、
自分を「良い人」だと思ってもらえる保証なんてない。

積極的にも消極的にも、
人を思い通りにコントロールすることは出来ない。

というのが、
昨日の記事で言いたかったことです。

今日はそれについて、
もう少し掘り下げて考えてみます。

上に書いたことをもう一度読んでみてください。

理屈を伝えても感情をぶつけてもダメ、
黙っていても良い人を演じてもダメ。

では、いったいどうすればいいのか?

人に何かを伝えたいとき、
何かを教えたいとき、
何かを頼みたいとき、
いや、もっと単純に人と向き合うということを考えたとき。

いったいどうすればいいのでしょう。

私自身これが正解だというものを掴んだわけではないので、
ここからは仮説として読んでください。

私は人間関係における問題の本質は、

「他人に対する無意識の要求」

にあると思っています。

例えば、
あなたが道を歩いていたとしましょう。

進行方向に電信柱が見えてきたら、
どうしますか?

もちろん避けますよね。

では、進んでいる方向から、
人が歩いてきたらどうでしょう。

ほとんどの人は避けるだろうと思いますが、
この時、電信柱を避けるのと同じように避けますか?

自分の心に正直になって考えてみてください。

(以下、次回へ右矢印

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自分以外の人を変えることは出来ない

最近、武颯拳の修練をしている時だけでなく、
プライベートでも感じることが多いことがあります。

それは、

「自分以外の人を変えることは出来ない」

ということです。

別の言い方をすれば、

「人を操作しよう」
「人をコントロールしよう」

ということがそもそも困難であるということ。

例えば後輩の指導を行うとき、

「ここを直してやろう」
「ここを変えてやろう」

と思って様々な角度からアプローチをします。

もちろん言ってすぐできることもありますが、
実際にはできないことの方が多いのです。

私としては、

「言うとおりにやればできるのに、何でやらないのだろう?」

と疑問に思うこともありました。

しかし先週木曜日の修練後に茂呂師範より、

「人それぞれ持っている感覚が違う」
「自分が脱力したいと思ってもなかなかできないのに、
他人にそれをさせるのが簡単であるわけがない」

というお言葉を頂きました。

それからずっと考えてたどり着いた現時点での結論が、

「自分以外の人を変えることは出来ない」

というものなのです。

これは、人に何かを教えたり強制的したりするような、
積極的なものだけではありません。

自分が黙っていたり当たり障りのないことだけを言うことで、
他人からの批評や批判を防ぐという消極的なものも含みます。

どちらのアプローチをとるにしても結局のところ、
他人をコントロールすることなどできないのです。

このことを理解するとその途端に、
普段の自分がいかに他人をコントロールしようとしているかに気づきます。

もちろんそんなことは出来ないので、
勝手にフラストレーションがたまって疲れていきます。

そしてそれを無意識のうちに行っているということ、
それに気づいていないということが一番の問題なのです。

だから、まずは気付くこと。

そして、意識してやめる。

すると、心も身体も本当に軽くなります。

武颯拳の脱力修練はただ技を掛けることが目的ではなく、
自分自身に気づくことが大切なのだと、
あらためて実感しています。

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脱力と要訣 「上虚下実」

脱力する修練を毎日続けていると、
わかっていたつもりの物事が、
実はわかっていなかったということに気づくことが数多くあります。

「頭では理解しているけど…」

というものから、

「それは常に意識し続けているはずなのに…」

というものまで色々と気づかされるのです。

そんな脱力修練の中で最近気づいたことの一つが、

「上虚下実」

といわれるもの。

太極拳というか中国拳法というか、
そっちの世界ではメジャーな要訣の一つですね。

他にも、

「含胸抜背」

「沈肩墜肘」

「立身中正」

などが有名どころだと思います。

要訣はいずれも、

「正しい姿勢や動作においては、人体はこのようになるもの」

という基準であり、

まずはそこに身体を合わせることが大切な修練の一つです。

そんな要訣の一つである「上虚下実」。

肩や胸、腹背の力を抜けば、
身体の重さは自然と下半身から地面へと伝わります。

それは、武颯塾に入門した当初から指導されていることであり、
10年以上修練を続けている身としては、
理解しているだけでなく日頃から実践しているつもりでした。

ところが。

私が行っていたのは、

「似て非なるもの」

だったのです。

脱力して「上虚下実」の状態になり、
股関節や腹背など身体の中心から動こうとはしていたのです。

少なくとも修練の最中は。

しかし実際に行っていたことは、
中心から上半身を動かそうとしていたのです。

せっかく脱力して中心を意識しても、
動き出すと上半身を主体に使ってしまう。

しかもそれが当たり前すぎて、
間違っているということにさえ気づけなかったのです。

そうではなく、
身体の中心が動くことでまず脱力した脚に動きが伝わる。

その動きが地面からの抗力を生み、
脱力した上半身へと伝わっていく。

この順番だからこそ、

「力を抜いて力を出す」

ことが可能なのです。

力を抜いた腕は、
同じく力を抜いた脚を通して「地面」が動かしているのです。

「上虚下実」

要訣一つをとってみても、修練をすればするほど、
分からないことばかりなのだと思い知らされます。

謙虚に修練をすることと、
自身を持って伝えていくこと。

この両方が必要なのだと感じている今日この頃です。

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脱力することの意味

先日、ほとんど身内ばかり7人を集めて、
脱力するための体操教室を開いたと記事にも書きました。

「脱力」に初めて触れるメンバーばかりの中で、
比較的上手く進行できたと自画自賛していたのですが(笑)、
一昨日、そのうちの一人から次のような質問がありました。

「脱力することで、何の役に立つの?」

これはおそらく誰もが感じる疑問であるとは思う反面、
そういう問題ではないと感じる部分でもあります。

ただ、そこをはっきりとお伝えしていかないと、
本当の意味での「脱力」が広まることはないでしょう。

というわけで、

「脱力することの意味」

について書きたいと思います。

私自身が「脱力」の修練をしている途上であり、
師の教えをなかなか実践できないでいるのですが、
そんな中でも一つ言えることがあります。

それは、

「身体は本来脱力して扱うもの」

だということ。

そう言われても、
ピンとこないですよね。

例えば。

あなたの身近な人が車を買ったとします。

とても喜んでいる様子なので、
「せっかくだから動かしてみてよ」
とあなたは声を掛けます。

「わかった」と返事をしたその人はおもむろに、
車を後ろから必死に押して動かします。

実はその人は信じられないほどの怪力の持ち主で、
車を押しても引っ張っても動かせるのです。

驚いたあなたは、
「スゴイですね!!」
と声をあげます。

ところが。

その人は車を押したり引いたりしているばかりで、
一向に運転しようとはしないのです。

最初は驚いたあなたもさすがに飽きてきて、
「スゴイのはわかったけど、そろそろ車が動くところも見たい。」
と言います。

でもその人の返事は、
「さっきから動かしているよ。」

あなた「いや、そうじゃなくて、運転して見せてよ。」

その人「だから、車を動かしているじゃない。」

…非現実的なたとえではありますが、
もしあなたがこのような場面に出くわしたら、
どう思いますか?

「車って、必死になって押したり引いたりするものじゃなくて、
ハンドルやアクセル、ブレーキなんかを使って運転するものだから。」

このように言いたくなりませんか?

車だと、

「必死に押したり引いたりするのは馬鹿げてる」

と思いますよね。

では、人の身体はどうですか?

「必死に押したり引いたりするのは馬鹿げてる。」

とは思いませんか?

「人と車は違う」
という方もいるでしょう。

でも、

「使い方が間違っている」

という意味においては同じなのです。

ただ、車については

「ほとんどの人が本来の使い方を知っている」

のに対して、

人の身体については

「ほとんどの人が本来の使い方を知らない」

というだけです。

もし、あなたの周りの人すべてが車を押して動かしていたとしても、
それで車の本来の動かし方が変わるわけではないですよね?

やはり車は運転するもののはずです。

同じように、ほとんどの人が本来の使い方を知らないという現状においても、
身体本来の動かし方が変わるわけではないのです。

だから、

「脱力することで、何の役に立つの?」

という質問には本当は次のように答えたいのです。

「それが本来の身体の使い方なのですよ。」

おそらく、あまり喜ばれない回答ですね(笑)

先にも書いた通り、
私自身が全然正しく動けてはいない状況です。

車に乗り込んでエンジンをかけて、
アクセルを踏んだけれどものろのろとしか動かない。

よく見るとローギアでサイドブレーキは引いたまま、
さらにアクセルとブレーキを一緒に踏んでいる。

結果だけ見ると、
偉そうなことは全く言えない現状です。

実際のところ外から押したり引っ張ったりしている人で、
私よりも早く車を動かしている人もいます。

(私自身が外から車を動かすよりは、
幾分早く動かせるようにはなりましたが)

ただ、少し未来に目を向けてください。

必死に筋トレをして車を外から動かすのか、
今は頭を悩ませて運転の仕方を学ぶのか。

あなたはどちらを選びますか?

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「歩く」という修練

先月の武颯塾の修練テーマは、

「運歩(歩き方)」

でした。

「歩く」という運動は、
日常で最も数多くおこなわれるものであり、
人が行うすべての運動の基本になります。

この「歩く」という運動が上達する程に、
武術・スポーツ・芸事のジャンルを問わず上達します。

その証拠に古来多くの芸事において、
「歩き方」の修練がありました。

ファッションモデルのウォーキングも、
頭に本を載せて練習すると聞いたことがあります。

現代スポーツの世界では競技特有の動きに特化して練習することが多く、
「歩き方」については少しおざなりになっている気もしますが…。

ただそれでも一流と言われるアスリートのほとんどが、
颯爽と歩いているのも事実です。

そんな、運動の根幹ともいえる「歩行」。

ケガその他の事情で困難な人を除けば、
ほとんどの人ができている「はず」の運動。

ところがそこには、
本当に奥深い世界が広がっていたのです。

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脱力した腕をどうやって動かすのか?(その2)

引き続き、

「脱力した腕をどうやって動かすのか?」

について考えていきます。

前回記事の最後で、

「腕はなぜ落ちるのか?」

という質問をしました。

答えは簡単ですね、

「重力が働いているから」

です。

立っている状態で挙げた腕は、
力を抜くと重力に引っ張られて下に落ちる。

ですが、落ち続けるというわけではありません。

腕が伸びきったところで止まります。

これも当たり前ですね。

腕は肩についているのですから、
肩が落ちてこない限りはそれ以上落ちません。

言い方を変えると、
肩が腕を支えているから伸びきった腕はそれ以上落ちない、
ということになります。

だとすると、
腕を支えている肩に上向きの力が掛かれば、
腕が動きそうですよね。

ただここでその言葉のまま肩を挙げてしまうと、

「肩の力を抜きなさい」

って言われてしまいます(笑)

ではどうすればいいのか。

肩を挙げずに、
肩に上向きの力を加える方法。

そんなものが本当にあるのでしょうか?

もちろんあるのです。

その方法の一つが、

「胸を落とす」

というものです。

先ほど、
腕を支えているのは肩であると言いました。

では、腕を支える肩はどのように支えられているのか、
というと胸が支えています。

それなら、胸はどこが?

このように考えていくと結局は、

「立っている身体は、足裏を通して地面が支えている」

ということがわかります。

挙げた腕も。
落ちた腕も。
力んだ腕も。
脱力した腕も。

みんな地面からの抗力で支えられているのです。

作用反作用の法則により、
立っている状態では抗力と重力は等しくなります。

重心の位置を変えずにどこかが落ちると、
その分どこかに上向きの力が働くのです。

この原理を腕に当てはめると、

「肩を動かさずに胸を落とすことで腕が挙がる」

ということになるわけです。

もちろんこれは、
修練の解釈の一つです。

「ジェットコースターで落ちるとき」

とか、

「足を固定された状態で思い切りジャンプしたとき」

に腕が挙がるという側面からも解釈が成り立つと思います。

こうやっていろいろと考えてみるのも、
武颯拳の修練の面白さだと感じています。

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脱力した腕をどうやって動かすのか?(その1)

今朝の明石公園は、
夏の到来を感じさせる日差しが印象的でした。

$練気武颯拳&東洋医学でFreeな心と身体♪-明石公園2012.6.29

季節の変わり目を肌で感じることが出来て、
なんだか幸せな気持ちになります。

それはさておき。

最近の練気武颯拳の修練では、

「完全に脱力させた腕を挙げる」

ということを行っています。

この、

「完全に脱力させた」

というところがポイントです。

ここがなかなか理解できません。
理屈においても、感覚においても。

立っている状態で挙げた腕の力を完全に抜くと、
当然ですが腕は落ちます。

「当然」と書きましたが、
まずはこれが本当に大切です。

腕が落ちる状態であるということが、
武颯拳の修練における大前提なのですから。

そしてこの落ちる状態の腕を、
どうやったら「落ちる状態のまま」挙げることができるのか。

それが、今行っている修練なのです。

「『落ちる腕』を、『落ちる状態のまま』、『挙げる』」

言葉で書くと、
思い切り矛盾していますよね(笑)

ですが、ちゃんと順を追って考えれば、
実は全く矛盾してはいないのです。

ということで、
まずは最初の質問です。

腕はなぜ落ちるのでしょうか?

(以下、次回へ右矢印

脱力でパフォーマンスは向上する

昨日の武颯塾神戸修練会には、
無料体験の方が2組4名もお越し頂きました。

今まではスポット的におひとりで来られる方ばかりだったので、
これまで以上に気合が入りました。

一組は空手をやっている女の子とそのご両親。
もう一人は合気道や脱力に興味があるという女性。

皆さん、「力を抜く」ということに興味があるということで、
とても真剣に話を聴いて下さったのが印象的でした。

体験で行った内容は、
20分ほどのストレッチと、
2人組になってお互いを緩め合うことだけ。

2人組で緩め合う前後に、
女の子には空手の型を表演してもらいました。

私自身は空手の経験がないので、
その型において求められている内容はわかりません。

ただ、緩め合った後の表演では、
肩の力みが取れて動きのキレが増していました。

私自身の技量はともかくとして、
武颯塾で教えて頂いている「脱力」の効果を今一度確信しました。

本当に、ただ力の抜けた状態になるだけで、
パフォーマンスは明らかに上がるのです。

ということは、スポーツなどの練習前にちゃんと身体を緩めれば、
それだけで質の高い練習ができるということです。

自分自身の修練においては「脱力」の難しさを感じることもありますが、
出来るだけ多くの方に「脱力」を感じてもらいたいと改めて思います。

昨日お越しいただいた皆様、
おかげで良い修練が出来ました。

この場を借りてお礼申し上げます。