相撲部屋に行ってきた。

 

 

フェイスブックには写真をあげたけど、

先日、佐渡ヶ嶽部屋の力士さん達に、

脱力トレーニングを紹介してきた。

間近で見るとみんなホントに大きくて、

最初はどうなることかと思ったw

けれどいざ始めてみたら、

ビックリするほど素直に話を聞いてくれた。

書きながら思い返しても、

じんわりとあったかい気持ちになる。

 

今回このようなご縁を頂いたのは、

塩田さんという佐渡ヶ嶽部屋のトレーナーの方から。

他にも多くのスポーツ選手について、

トレーニングの指導をしていたり、

健康関連のビジネスをしていたりする。

 

この人のスゴイところはその行動力。

初めて会ったのは二週間ほど前。

最初のメールで、

「今日、脱力トレーニングに行きたいです」

ときて、

2回目のトレーニングの後には、

「一緒に佐渡ヶ嶽部屋に行きましょう」

となった。

凡人の私としてはただ驚くばかりだったけど、

彼によれば、

「絶対に力士の役に立つ」

という確信があったらしい。

 

このあたりが、

多くのプロスポーツ選手を見ている彼と、

そうじゃない私との大きな違い。

プロの選手に会う機会のない私としては、

「自分ができる程度のことは、

プロなら大抵できるんじゃないの?」

って思っていた。

だから最初に書いた通り、

実際にカラダに触れてみるまでは、

どうなることやらと不安だった。

 

でも力士の方と組ませてもらって、

塩田さんの言ってることがよく分かった。

私が修練している武術・脱力は、

かなり特殊なもののようだ。

カラダをかなり鍛えている方でも、

それを脱力して使えるとは限らない。

たとえプロの選手であっても、

力の伝達ロスを修正してあげれば、

パフォーマンスの向上が見込める。

と言うよりもむしろ、

彼らのような成績と収入が直結する人達にこそ、

脱力トレーニングが役に立つ。

それが感覚として分かった。

 

これって当たり前だけど、

自分達だけでトレーニングしている間は、

なかなか気付けない。

そうかもしれないとは思いつつも、

確信が持てない。

実際に足を運んで、

必要としてくれる人に会ってはじめて分かること。

だから今回お話を頂いた塩田さん、

そして佐渡ヶ嶽部屋の皆さんには、

本当に感謝しています。

ありがとうございました。

 

 

脱力トレーニング 魅力的な所作

 

学生時代、

落研に入っていた彼女。

先日、久しぶりに寄席を観にいったらしい。

大阪、天満の繁昌亭。

そう言えば、

神戸の新開地にも作るって話があったような。

どうなったんだろう?

 

 

私は普段から寄席を観に行くような落語ファン、

ではない。

テレビでもほとんど見ない。

ただ、初めて生で見た時のことは覚えている。

扇子を茶碗に見立ててお茶を飲む、

ただそれだけの所作に惹きつけられた。

 

 

魅力的な所作とそうじゃないものの違い。

それは、含まれる情報量の差にある。

見ている側が受け取る情報量が多いほど、

その所作は魅力的に映る。

つまり、自分を魅力的に見せようと思ったら、

所作に込める情報量を増やせばいい。

一つ一つの所作において、

何を感じ、意識しているのか。

 

例えば先の、お茶を飲むシーン。

お茶は茶碗にどれだけ入っているのか?

重さは?

温度は?

茶碗の硬さや表面の質感は?

そういった様々な状況に意識を向けてみる。

これが最初のステップ。

さらに次は、

その時のカラダの感覚に意識を向ける。

茶碗の重さをどこでどうやって支えているのか。

お茶の温かさが口から喉、お腹へと広がる感覚。

こうやって意識を向けてみると、

ただお茶を飲むだけの所作からも、

様々な情報のやり取りができる。

 

落語や演劇、お茶やお花の稽古に限らず、

上達する人はこの意識の向け方が上手い。

そして、地道にやり続ける。

トレーニングなんて、

みんなそんな地味なもの。

でも、その積み重ねがいつしか、

ただお茶を飲むだけで惹きつけられる、

魅力的な所作を生むんだ。

 

 

「南無阿弥陀仏」について考える

南無阿弥陀仏

 

こんにちは、ワタルです。

今日は、

「南無阿弥陀仏」

について考えてみます。

みなさんご存じのとおり、
仏教の一派である浄土宗や浄土真宗で唱えられているアレです。

浄土宗や浄土真宗については、
中学校の歴史の時間で習いましたよね。

法然上人が開いた浄土宗と、
その弟子である親鸞聖人が開いた浄土真宗。

教科書に書いてあった程度の知識ですがその教えは、

「南無阿弥陀仏」

と唱えることで、
難しい修行をしなくても極楽浄土に行けるというものでした。

これを習った当時の私は、

「なんてムシの良い話だw」

と思っていました。

それが本当なら誰も苦労はしないよ、と。

ですが細々と武術の修練をしてきた今では、
少し違った考えを持っています。

「南無阿弥陀仏」

の教えには、
もっと深い意味があるのではないかと。

そう考えてみたときにある仮説にたどり着いたので、
それを書いてみようと思ったわけです。

ちなみにこの、

「ただ南無阿弥陀仏と唱えていればいい」

という話を最初に聞いたときに私が想像していたのは、

「何か都合の悪いことが起きた時に唱える」

というものでした。

それはドラマやアニメの影響もあるかもしれませんが、
これを読んでいる皆さんもそうではありませんか?

日本昔話なんかで、
鬼が来ることに怯えながら家の中で唱えている。

そんなイメージを持っていたのは、
私だけではないと思うのです。

そしてそうしたイメージにおいては当然、

「そんなの意味無いよ」

と言ってしまうわけです。

しかしこのイメージの前提を変えてみたらどうでしょう?

「都合の悪い時にだけ唱える」

のではなく、

「起きている間ずっと唱え続ける」

のだとすればどうか。

随分と話は違ってきますよね。

それはそうそう出来るものではないし、
ムシの良い話でもなくなってくる。

つまり私が考えた仮説とは、

「南無阿弥陀仏は唱え続けなければ意味がない」

というものなのです。

たとえどんな時でも。

仕事をしている時、
友達と話をしている時、
家族と食事をしている時、えとせとら。

いついかなる時においても意識のある限り、
南無阿弥陀仏と唱え続ける。

念仏を唱えることに集中することで、
自分の中の余計な思考や感情から解放される。

これがおそらく、
法然上人が伝えたかったことなのではないでしょうか。

お坊さんでもある後輩によると、
法然上人はもともと比叡山の天台宗にいたそうです。

比叡山と言えば、

「千日回峰行」

が有名ですよね。

三年にわたって野山を駆け回り続ける。

そんな厳しい修行が出来なくても、
ただ一日中念仏を唱えていれば良い。

法然上人にとってはそれは、
誰でも簡単にできる修行方法に思えたことでしょう。

なにせ比べる対象が超人的な修行なのですから。

けれどもそれを聞いた一般の人にとってはどうでしょうか。

起きている間ずっと念仏が頭の中で鳴っている人など、
まずいないと言えるでしょう。

私としてはここに、
教えることと教わることの難しさを感じます。

おそらく法然上人の話を聴いた人たちは、

「ああ、こんな簡単なことで極楽に行けるんだ」

と思ったことでしょう。

そしてそれを伝えた法然上人も、

「そう、こんな簡単なことで良いんだよ」

と思って伝えたはずなのです。

ですがそれぞれの理解している教え、

「ただ南無阿弥陀仏と唱えていればいい」

という言葉の間には、
絶対的な違いがあります。

その違いとは、

「回数」

です。

ただ話を聴いた人たちはきっと、

「思い出した時に念仏を唱える」

という理解と行動をしたことでしょう。

けれども法然上人の教えでは、

「起きている間ずっと念仏を唱える」

という行動を要求しているのです。

もちろんこれは私の仮説なので、
実際の法然上人の教えがこの通りとは限りません。

ですが一説によれば法然上人自身は、
1日に60,000回の念仏を唱えていたそうです。

仮に1秒に1回唱えたとしても、

60,000秒=1,000分=16時間40分

かかるわけです。

そう考えると、

「起きている間ずっと唱え続ける」

ということにも、
真実味がでてきますよね。

…話しが逸れましたが、
結局ここで言いたかったことは、

「教わった通りに行うことが如何に難しいか」

ということ。

法然上人のように1日60,000回の念仏を唱えている人は、
ほとんどいないことでしょう。

武術を学んでいる私自身も同様に、
教わったことを本当に理解しているのかどうか、
はなはだ怪しいものです。

だからこそ師の教えは、
何度も何度も繰り返し受ける必要があるのです。

一度聴いただけで分かった気になる自分を抑えて、注意深く教えを受ける。

そういう態度が、
何かを学ぶときには絶対に必要になる。

南無阿弥陀仏について考えていて、
ふとそんなことを思った次第です。

P.S.

もっと多くの方に来て頂いて、
より幅広く学べる環境。

さまざまな取り組みをされている人たちが、
「脱力」というキーワードで交流できる場所。

武颯塾大阪支部と神戸修練会を、
そんな場所にしていきたいと思っています。

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修練参加でも、質問でも何でも結構です。

ピンとくるものがあれば、
遠慮なくメールをください。

musou-tensei@eurus.dti.ne.jp

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神様は壁と同じ!?

 

こんにちは、ワタルです。

前回記事の終わりに書いた、

「神様は壁と同じ」

という不謹慎な結論について、
今回はその理由を書いていきます。

$脱力~Reset Style(リセットスタイル)~-新幹線

この話はもともと、
神様に対する態度として、

「自力本願と他力本願のどちらが良いのか?」

という疑問から始まりました。

そして武颯塾のある先輩は現時点で、
「他力本願」の方がなじむと言っています。

それがなぜかというと、

「神様は壁と同じ」

だからなのです。

説明します。

武颯拳の修練における最も基本的なものとして、

「曲げられない腕」

というものがあります。

オーソドックスな形としては、
前に出した腕を肘のところで曲げに来たのに対し、
それをどれだけ力を抜いて受けられるかを修練します。

ですがやってみると、
意外とうまくいきません。

とくに初めのうちは、
力を抜くとフニャッと曲がってしまいます。

そこでアプローチの一つとして、

「手で壁を触りに行く」

という方法があります。

この方法を取ることで、
それまで曲げられていた腕が、
驚くほど強くなるのです。

この時重要になるのは、

「意識を集中する」

ということ。

曲げられている腕に向いてしまいがちな気持ちを、
ただひたすら「壁を触ること」に集中するのです。

すると、不思議に思われるかもしれませんが、
自分が「壁」になったような感覚を感じられる。

そしてそうなったときには、
曲げられている腕から「自分」がいなくなっている。

この、

「『自分』がいなくなった腕」

というのが、
それまでとは比べ物にならないくらい強いのです。

つまりこのアプローチにおけるポイントは、

「自分が壁になる=腕から自分がいなくなる」

ということ。

これによって、

「無我の強さ」

の一端を垣間見るのです。

そしてこの時の「壁」と、
神頼みの時の「神」とは同じものではないか。

というのが、
今回言いたいことなのです。

神頼みを行う時というのは、
何か願いや目標がある時ですよね。

そんな時に、

「自分で頑張ります」

と言ってしまうのは、
腕を自分で曲げられないように頑張るのと同じではないか。

それならばいっそ、

「神様お願い!!」

と一心不乱にお願いした方が、
むしろ「無我」に近づけるのではないか。

私自身のことを振り返って考えてみると、
神頼みをしていたのは小学生くらいまでのように思います。

特定の宗教を信仰していたわけではありませんし、
そもそも神様を信じていたわけでもありません。

それでも中学生になる前くらいまでは、
何か大変なことがあると神頼みをしていたのです。

おそらく中学生になるころには自我が発達してきて、

「自分で頑張る」

ことが大切だと考えるようになったのでしょう。

もちろんこれが間違いだというつもりはありません。

自分が何もしないで目標に近づくことなんてありえないし、
自我の確立は精神的な発達において必要不可欠な段階ですから。

けれども、それがゴールではない。

確立した自我から、
もう一度自由になる。

それが脱力修練の進む方向ではないか。

だとすれば、

「神様お願い!!」

という他力本願に思える態度こそ、
実は修練の一つの段階なのではないか。

そういう意味において、
「無我」に近づくための目標設定として、

「神様は壁と同じ」

だと言えそうだ。

そんなことを話しながら、
東京から帰ってきたのです。

P.S.

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「神様お願い!!」について考える

八坂神社

 

こんにちは、ワタルです。

今日は、

「神様お願い!!」

という、いわゆる「神頼み」について書きます。

これは先日東京・池袋で行われた武颯塾演武会の帰りに、
武颯塾の先輩と話した内容をまとめたものです。

ちなみにその先輩は日本の神話に対する知識も深く、
各地の神社にも数多く参拝した経験があります。

当然、参拝の作法などについて書かれた本も、
一般的なものからスピリチュアル寄りのものまで、
幅広く読んでいるわけです。

そんな先輩いわく、
神社へお参りする時の態度として、
大きく分けて2通りあるそうです。

一つは、

「神様お願い!!〇〇して下さい!!」

というもの。

どこからどう見ても、
明らかに他力本願そのものですね。

もう一つは、

「私は〇〇を頑張ります!!神様見ていてください!!」

というもの。

こちらはお願いというよりは、
宣誓といった感じでしょうか。

基本的には自分の力で頑張ろうという態度ですよね。

これら2つの態度、
全く正反対に見えるわけですが、
一体どちらが正しいのでしょうか?

先輩自身は参拝に興味を持ったころ、
まずは後者の態度で行っていたとのことです。

それは当時読んでいた参拝関連の本に、
そのように書かれていたから。

そしてその、

「自分で頑張ります」

という態度の方が、
他力本願よりも正しい気がしたから。

けれども最近は、
考え方が変わったそうです。

むしろ、

「神様お願い!!」

の方がしっくりくる。

「この変化は一体何なのか?」

いや、そもそも、

「脱力修練から見た神様とはどういったものなのか?」

ということについて二人で話していたわけです。

そして出した現時点での結論。

それは、

「神様は壁と同じ」

という、不謹慎極まりないものでしたw

(以下、次回へ右矢印

P.S.

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自分の身体を信じて任せる

こんにちは、ワタルです。

今日は、自分の身体とどのように向き合うかについて、
最近の体験を交えて書きます。

私が歌のレッスンに通っていたことには、
以前このブログでも少しだけ触れました。

とても熱心な先生についたおかげで、
人前で自分を表現する楽しさを学べました。

ですが残念ながら、
歌自体はなかなかうまくなりませんでした。

どうしても耳で聴いた音と、
自分が出している声とが一致しないのです。

ただ4年近く続いたレッスンをやめた今でも、
細切れに空いた時間を使ってカラオケには割とよく行きます。

「一人カラオケ」

という密かな楽しみができたのです。
(もちろん一人じゃなくても楽しいですよw)

ちなみに私自身としては「歌をうまく歌う」ということよりも、
「脱力をどう発声に活かすか」に興味があります。

武術とは違った角度からの脱力修練というわけですね。

そして最近、そんな「一人カラオケ」の最中に、
とても大切な気づきがありました。

それは今までどうやっても音程がずれていた私の歌を、
大きく変えてくれそうな気づきです。

その気づきこそ、

「自分の身体を信じて任せる」

ということ。

ずれた音でしか歌えなかった理由は、
音を合わせるために身体をコントロールしようとする点にあったのです。

ある歌を聴く。

それに合わせて歌を歌う。

微妙に歌声の音程が低い。

次は少し高めに声を出そう。

こうやって自分の喉をコントロールしようとする行為自体が、
そもそもナンセンスなことでした。

そんな小難しいことをしようとせずとも、
ただ声を出せば良かったのです。

歌のメロディーさえ正確に覚えていれば、
声の音程は身体が勝手に合わせてくれる。

歌うことが苦手な人はおそらく私と同じように、

「自分が音を合わせる」

ということをやってしまっているのでしょう。

でも、そんなことは必要ありませんでした。

「自分」はただただ身体を信じて任せれていればいいのです。

そしてこれは、
武颯塾で修練していることと全く同じ。

「自分の身体を信じて任せる」

ということが、
武術にも歌にも等しく必要なことだったのです。

P.S.

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反復練習の是非

こんにちは、ワタルです。

昨日Nさんと話したことの中に、
ぜひシェアしておきたい内容がありました。

それは、

「反復練習の是非」

について。

何か一つのことに向かって努力していると、
新しい感覚を見つける瞬間があります。

それは仕事でもスポーツでも芸事でも同じだと思うのですが、

「あ、コレだ!!」

と思う発見が必ずあります。

そして真面目に取り組んでいる人ほど、
その感覚を定着させようと繰り返し実践しますよね。

いわゆる「反復練習」というやつです。

ですが経験上お分かりのように、
この感覚はだんだんと色あせてきます。

発見した瞬間は鮮やかだった感覚は、
繰り返すうちにその新鮮味を失っていくのです。

そしてある時、
ふと気づくのです。

「私は何をわかったつもりになっていたのだろう?」

と。

今までその感覚で出来ていたことが、
急に出来なくなったり、
物足りなく感じたりします。

そんな時にどうすればいいのか?
というのが今回のテーマであり、
それに対する私の答えは、

「ピンとこなくなったらやめる」

というものです。

自分の感覚として練習することに面白みを感じなくなったら、
その練習はやめてしまえば良い。

その時に本当にやるべきことは、
必ず他にあるのです。

以下はその理由について説明します。

私の経験上、
このようなときに起きている事は、
以下の2通りに分けられます。

1.新しい感覚が身体に馴染んで当たり前のものになった

2.同じことを繰り返すうちに見当違いのことをするようになった

もちろんこれは完全に境界線を引けるものではなく、

「感覚が馴染んでいるにも関わらず、

発見当時の鮮やかさを求めるあまり別のことをしてしまう」

ということもあるのですが、
説明上分けることにしました。

1.の場合において反復練習をしないほうが良い理由は、

「それ以上の上達が見込めないから」

です。

馴染んでいる感覚というのは、
見方を変えればすでに、

「今の自分」

になっているわけです。

上達というのは基本的に、

「今の自分を変える」

ことの上に成り立つものなので、
馴染んでいる感覚の反復練習では、
それ以上の上達は見込めないのです。

2.の場合においてはもっと強く言う必要がありますね。

「その反復練習をやめなさい」

と。

なぜならそれは、

「見当違いのことを繰り返している」

のですから。

上にも書きましたが、
感覚というものは気づいたときが一番ハッキリしているのです。

なぜならそれは、
今までの感覚との「差」が大きいから。

人は何かを他との「比較」によって理解します。

当然、
「差」が大きいほど分かりやすいのです。

ところが反復練習をすればするほど、
その「差」はなくなってきます。

それは感覚が自分に馴染んできたということなのですが、
人は感覚自体を認識することが難しい。

ほとんどの場合は今までとの「差」を、
「感覚そのもの」として認識しているのです。

だからせっかく感覚が馴染んできているにもかかわらず、
同じだけの「差」を感じようとしてしまう。

その結果見当違いのことをするようになり、
ハッキリ言えば、

「やればやるほど下手になる」

ことさえあるのです。

つまり1.2.いずれの場合においても、

「反復練習の効果がなくなっている」

と言えるのです。

だからこそ、

「ピンとこなくなったらやめる」

という、

「勇気」

が必要なのです。

今まで繰り返してきたことを変えるのには抵抗がありますが、
それを乗り越えることが、

「上達への道」

なのです。

P.S.

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向上の形(ロンドンオリンピックを見ておもふこと)

ロンドンオリンピックが開幕して、
興奮で眠れない夜を過ごしている方も多いのではないでしょうか。

個人的には男女サッカーの活躍に、
メダルへの期待が高まっております。

ただ、普段の実力を出せずに競技を終えている選手も、
中にはいると思います。

そんな姿を見て、
そして自分の修練をかえりみても感じることがあります。

仕事、勉強、スポーツ、人間関係などのジャンルを問わず、
「向上」とか「上達」はある一定の形を取ります。

それは、こんな形です。

~脱力の極意を求めて~ 練気武颯拳&東洋医学でFreeな心と身体♪-向上の形

何の事だかよくわかりませんよねw

でも、意味はものすごく単純です。

努力とか練習とかを続けていると、
ある時ふと何か新しいものに気付きます。

その気づきによって一時はパフォーマンスが上がるのですが、
そのあと必ず、以前よりもパフォーマンスが落ちるのです。

このギャップは大きく、
何度経験しても気分の良いものではありません。

ですが、この「上がって落ちる」という経験の後、
新しい気付きは自分のものとして定着し、
以前よりも高いパフォーマンスを維持できるようになるのです。

もちろんこれは、
何かに継続的に取り組んでいる人の誰もが感じていることだと思います。

ですので、たとえばスポーツの選手であれば、
試合の時の自分がこの図形のどこにいるのかということは、
おそらく頭では理解していることでしょう。

ただ、周りの人や観客には、
それがなかなか理解できません。

今までの実績からこれくらいの成績は当然だ、
という気持ちで見られてしまいます。

それで、もしかすると選手の中には、

「自分はベストを尽くせなかった」

と思ってしまう人がいるかもしれません。

でも、実際はそうではないのです。

オリンピックに出るような選手は皆さん、
毎日毎日途方も無い量の練習を重ねていることでしょう。

そうやって練習を積み重ねているということは、
このグラフのようなパフォーマンスの変動が、
より頻繁に起こりうるということなのです。

もちろんその変動をある程度コントロールできるからこそ、
オリンピックに出られるほどの選手なのでしょうが、
だからといってそれが0になるわけではないのです。

そしてそれは最初に述べたように、
スポーツの世界に限ったことではないのです。

何かに一生懸命取り組んで、
もう少しで上手くいきそうなところで失敗をする。

あるいは外からの横やりが入って、
ブレーキをかけられてしまう。

こういったことは、
皆さん日常的に感じておられることでしょう。

でもそれは、
努力が足りないのでも停滞しているのでもなく、
前に進んでいる証拠なのです。

だから大切なことは、
そこで気を落とさずに努力を続けること。

それさえできれば、
必ず道は開けてきます。

私自身、
そう言い聞かせて修練を続けておりますw

だからレベルは全然違いますが、
オリンピックで思うような結果が出せなかった選手にも、

「おつかれさまでした、また頑張りましょう」

と声を掛けてあげたいのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

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痛いけれど、なんか笑える


修練日誌が途中ですが、
ちょっとした出来事が続いたので、
今日はそれを書きます。

とりあえず昨日、
膝をねじってしまいました。

身体を緩めようとして、
気持ちまで緩んでしまったようです。

修練が足りてないということでしょう。

お医者さんによると、
「前十字靭帯損傷」「内側側副靭帯損傷」
だろうとのこと。

確定診断は、
木曜日のMRI画像によって下すそうです。

パンパンに腫れた膝から血が抜かれるのは、
気分のいいものではないですね。

昨晩は痛みでほとんど眠れませんでした。
痛くない姿勢は他の所に負担が大きいのです。

人の体というのは、
微妙なバランスの上に成り立っているのですね。

…とまあ、痛いことは痛いのですが、
そこになんとなく可笑しさを感じてもいて、不思議な気分です。

私事ばかりで大変恐縮ですが、

つい先月は、帯状疱疹で痛かったですし、
先々月は歯茎がひどく腫れて眠れませんでした。

15年以上使っていたお気に入りの茶碗は割れてしまうし、
ここのところ立て続けにいろいろある感じです。

自分自身の中でマイナス(と思われる)面に、
意識の焦点が当たっているのかもしれません。

ただ、良いことも沢山あるのです。

新しい身体の感覚に気づいたり、
今までの自分のパラダイムを発見したり、
素晴らしいブログに出会えたり…。

最近では、とても身近な人が修練会に参加してくれるようになりました。
しかも、友達にも声を掛けてくれたとのこと。

これには感激して涙目になりました(笑)

そんな感じで、なんかこう、アップダウンが激しいなと。

ってなことをつらつらと考えていると、
痛みの中に可笑しさがこみ上げてくるんですね。

修練は早く始めたいのですが、
まあ、のんびりと治すことにします。