こんにちは、ワタルです。
前回記事の終わりに書いた、
「神様は壁と同じ」
という不謹慎な結論について、
今回はその理由を書いていきます。
この話はもともと、
神様に対する態度として、
「自力本願と他力本願のどちらが良いのか?」
という疑問から始まりました。
そして武颯塾のある先輩は現時点で、
「他力本願」の方がなじむと言っています。
それがなぜかというと、
「神様は壁と同じ」
だからなのです。
説明します。
武颯拳の修練における最も基本的なものとして、
「曲げられない腕」
というものがあります。
オーソドックスな形としては、
前に出した腕を肘のところで曲げに来たのに対し、
それをどれだけ力を抜いて受けられるかを修練します。
ですがやってみると、
意外とうまくいきません。
とくに初めのうちは、
力を抜くとフニャッと曲がってしまいます。
そこでアプローチの一つとして、
「手で壁を触りに行く」
という方法があります。
この方法を取ることで、
それまで曲げられていた腕が、
驚くほど強くなるのです。
この時重要になるのは、
「意識を集中する」
ということ。
曲げられている腕に向いてしまいがちな気持ちを、
ただひたすら「壁を触ること」に集中するのです。
すると、不思議に思われるかもしれませんが、
自分が「壁」になったような感覚を感じられる。
そしてそうなったときには、
曲げられている腕から「自分」がいなくなっている。
この、
「『自分』がいなくなった腕」
というのが、
それまでとは比べ物にならないくらい強いのです。
つまりこのアプローチにおけるポイントは、
「自分が壁になる=腕から自分がいなくなる」
ということ。
これによって、
「無我の強さ」
の一端を垣間見るのです。
そしてこの時の「壁」と、
神頼みの時の「神」とは同じものではないか。
というのが、
今回言いたいことなのです。
神頼みを行う時というのは、
何か願いや目標がある時ですよね。
そんな時に、
「自分で頑張ります」
と言ってしまうのは、
腕を自分で曲げられないように頑張るのと同じではないか。
それならばいっそ、
「神様お願い!!」
と一心不乱にお願いした方が、
むしろ「無我」に近づけるのではないか。
私自身のことを振り返って考えてみると、
神頼みをしていたのは小学生くらいまでのように思います。
特定の宗教を信仰していたわけではありませんし、
そもそも神様を信じていたわけでもありません。
それでも中学生になる前くらいまでは、
何か大変なことがあると神頼みをしていたのです。
おそらく中学生になるころには自我が発達してきて、
「自分で頑張る」
ことが大切だと考えるようになったのでしょう。
もちろんこれが間違いだというつもりはありません。
自分が何もしないで目標に近づくことなんてありえないし、
自我の確立は精神的な発達において必要不可欠な段階ですから。
けれども、それがゴールではない。
確立した自我から、
もう一度自由になる。
それが脱力修練の進む方向ではないか。
だとすれば、
「神様お願い!!」
という他力本願に思える態度こそ、
実は修練の一つの段階なのではないか。
そういう意味において、
「無我」に近づくための目標設定として、
「神様は壁と同じ」
だと言えそうだ。
そんなことを話しながら、
東京から帰ってきたのです。
P.S.
もっと多くの方に来て頂いて、
より幅広く学べる環境。
さまざまな取り組みをされている人たちが、
「脱力」というキーワードで交流できる場所。
武颯塾大阪支部と神戸修練会を、
そんな場所にしていきたいと思っています。
このブログを読んで興味をお持ちでしたら、
ぜひ、ご連絡ください。
修練参加でも、質問でも何でも結構です。
ピンとくるものがあれば、
遠慮なくメールをください。
楽しみにしております!!
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