「力みによる実感」が「確固たる自分」をつくる

前回に引き続き、
「自我」と「力み」の関係について考えていきます。

少し振り返っておきますと、

「『自我』とは『思考』『感情』『感覚』が相互に影響し合って生まれたもの」

だと現時点では考えます。

ここで注意してほしいところは、
「思考」や「感情」は知覚された「情報」についての「反応」であることです。

それはつまり、
「思考」や「感情」だけでは『自我』は成立しえないということ。

なぜならあまりに多くの「情報(広い意味での)」が、
ただ生きているだけで知覚されるから。

仮に「思考」や「感情」だけが『自我』だとするとどうなるでしょう?

言うこと為すことがめまぐるしく変わりすぎて、
「私が私である」と言える根拠が形づくられません。

そこで、「感覚」の出番なのです。

「思考」や「感情」がある種の「感覚」とリンクすることで、
まとまったものとして定着しやすくなる。

そこではじめて、
「私が私である」と言える根拠になるのです。

ところが、
先ほども言ったように「情報」があまりにも多いため、

普通の「五感」とリンクするだけでは、
「思考」や「感情」は根拠と言えるほどには定着しないのです。

ずっと同じものを観ているわけでも、
同じものを聴いているわけでもないのですから。

では、外部からの「感覚」ではなく、
自分で作り出せる内部からの「感覚」とリンクさせるとどうでしょう?

こうすると、
時と場所を選ばず感じることができるようになります。

「私が私である」と。

これは便利だと思いませんか?

外部からの情報によって影響される「移ろいやすい自分」ではなく、
自分で自分を定義できる「確固たる自分」になれるわけです。

そんな素晴らしい魔法の「感覚」(と思ってしまうもの)こそが、

「力みによる実感」

なのです。

(以下、次回へ右矢印

「思考」「感情」「感覚」

少し前の記事で触れた、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

という仮説について、
さらに踏み込んで考えてみます。

そもそも、
『自我』とは一体何なのでしょう?

心理学的な正しい定義は残念ながら知りませんが、
大雑把な感覚で言うと、

「私が私である」

と認識する働きが『自我』である、
と言えるのではないでしょうか。

「『私』と『私以外』を区別する働き」
と言ってもいいかと思います。

この働きを形作るものは幾つか考えられますが、
主になるのは以下の3つだと考えます。

「思考」「感情」「感覚」

この3つが相互に影響しあうことで、
『自我』として存在するのです。

この3つの関係について思い切り簡略化した説明をすると、
以下のようになります。

1.身体内外の情報を「感覚」として知覚する。

2.知覚した情報に対する反応として、「思考」が湧く。

3.「思考」の内容に応じて「感情」があらわれる。

4.「思考」「感情」に合わせて身体状況が変化し、「感覚」が変化する。

5.変化した「感覚」を知覚して、さらに「思考」が湧く。

6.以下、繰り返す。

もちろん実際にはこんな単純なものではないでしょうが、
イメージとしては概念しやすいかと思います。

(以下、次回へ右矢印

「『武術』を使った『脱力』の修練」(続々々・人はなぜ「力む」のか?)

ここ3回にわたって、

「人はなぜ力むのか?」

をテーマに考えてきました。

そしてたどり着いた考えが、

「『力み』が『実感』を生み出す」

ということ。

そして、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

ということなのです。

つまり、

「『自我』が存在し続けるために力んでいる」

ということが言えると思います。

そう考えると、
「力み」がいかに根源的な欲求に根差したものかがわかります。

日々「脱力」の修練をしていても、
思い通りに進まないわけも理解できます。

なぜなら「私が」上手く技を掛けるために、
「脱力」をしようとしているからです。

ここまで3回の記事を読んでくださった方であれば、
これがいかに矛盾した行為であるかがお分かりでしょう。

「私が」という「自我」が存在するためには、
「力み」による「実感」が必要なのです。

これでは、いくら「脱力」しようとしても、
根本的な「力み」が無くなるはずがありません。

車のブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなものですから。
もしかすると、サイドブレーキも引いたままかもしれません。

そこで、自分自身の修練の方向性を見直すことにしました。

これまでは、

「『脱力』を使った『武術』の修練」

をしていました。

これからは、

「『武術』を使った『脱力』の修練」

をしていきます。

「『私が』技を掛ける」修練から、「技を掛ける」修練へ。

今回いろいろと考えることで、
練気武颯拳の修練がより一層楽しくなりました。

自我の存在証明としての『実感』(続々・人はなぜ「力む」のか?)

前回の記事において、
断言してしまいました。

「力みによって得られるものは『実感』であり、
ほとんどの人は、『実感』を得ることを、何よりも優先してしまう」と。

今回はこのことについて考えていきます。

まず、「力み」によって「実感」が得られることについてですが、
これについては簡単に理解できると思います。

試しに、「力こぶ」を作ってみてください。
そう、上腕二頭筋をギュッと収縮させるのです。

すると、感じられると思います。
「今、ここに私の腕が確かにある」という「実感」が。

ウェイトトレーニングをしたことのある方は、
よりわかりやすいと思います。

ウェイトを上げるために、
目的の筋肉にグッと力を込める。

そして、自分の限界まで力を出した時に感じますよね。
「ああ、よく頑張ったな俺(私)」って。

もちろんこれは極端な例ですが、
「力み」によって「実感」が得られるということはわかってもらえると思います。

次に、この「実感」を得ることが、
他の何よりも優先される理由について考えます。

もう一度ウェイトトレーニングを例にみてみましょう。

例えばあなたが、
ベンチプレスで100kgのウェイトを挙げたとします。

人によっては軽々と挙げるかもしれませんが、
多くの人にとっては渾身の力を振り絞って挙げるでしょう。

いずれにせよそこには確かな「実感」、
言い換えると「手応え」があります。

この「手応え」があるからこそ、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと認識できるのです。

ではもし、この「手応え」が無かったとしたら?

見た目には確かに100kgと書いたウェイトが挙がっています。
ガチャガチャという音もしています。

でも、「手応え」は全く感じられません。

この状態であなたは、
「あなたが」100kgのウェイトを挙げたと思えますか?

思えないはずです。

それが「軽い」にせよ「重い」にせよ「手応え」として感じられるからこそ、
「あなたが」ウェイトを挙げたことになるのです。

これは、武術の技においても同じことが言えます。

練気武颯拳の技はすべて、
「脱力」によって掛けます。

ですが、本当に「脱力」による技を掛けたときは、
今まで感じていた「手応え」は全くないのです。

そんな状態で技を掛けた時に、
感じることができるでしょうか?

「私が」技を掛けた。
「私は」相手より強い。

感じられませんよね。
なぜなら「手応え」という「実感」が無いのですから。

つまり、
翻ってみると、

「実感」があるからこそ、
「私が」「あなたが」何かをしたと言えるのです。

この、何かをする「私」「あなた」こそが、
「自我」と呼ばれるものだとすれば…

そう、

「『実感』があるからこそ、『自我』が存在できる」

のです。

次回はこのあたりについて考えてみたいと思います。

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「力み」によって得られるもの(続・人はなぜ「力む」のか?)

「そもそも、なぜ人は力んだ不合理な動きをしてしまうのか?」

練気武颯拳を修練するうえで、
避けては通れない疑問です。

この疑問を解くためには、

「力むことで、一体何を得ているのか?」

について考える必要があります。

脱力修練をしたことのない人にとっても、
「力みを取る」「肩の力を抜く」ことの効果は理解できると思います。

それでもなお力んでしまうのは、
力むことで「何か」を得ているからなのです。

そしてその「何か」は、
ほとんどすべての人にとって、
かけがえのないくらい大切なものなのだということ。

脱力して目を瞠るほどのプレーをしたり、
達人のような技をかけること。

あるいはリラックスして居心地の良い人間関係を築いたり、
誰もが驚くような仕事の成果をあげること。

それよりも優先されるべき「何か」を得られるからこそ、
人は力んでしまうのです。

素晴らしいパフォーマンスや清々しい気分。
それらを犠牲にしてまで得たい「何か」とは?

…あまり引っ張っても仕方がないので、
サラッと言っちゃいます(笑)

その「何か」とは、
「実感」のことなのです。

こう書いてしまうと、
ほとんどの人は拍子抜けしてしまうかもしれません。

「私はそのようなものよりも、結果を求めている」
とおっしゃるのではないでしょうか。

しかし、それでも断言してしまいます。
「ほとんどの人は、実感を得ることを、何よりも優先してしまう」と。

次回はそのあたりについて考えていきます。

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人はなぜ「力む」のか?

練気武颯拳の修練を続けていると、
数多くの疑問に突き当たります。

それらを師範に尋ねると、
ほとんどの場合は丁寧に教えて頂けます。

ところが質問によっては、
「あえて答えは言わない」という場合があります。

今回はそんな疑問の一つである、

「そもそも、なぜ人は力んだ不合理な動きをしてしまうのか?」

について考えてみます。

練気武颯拳で教わる「脱力」による合理的身体運動は、
そもそも本来誰もができるものであり、

それを妨げている不要な「力み」を取り除けば、
今すぐにでも「達人」になれるはずなのです。

ところが、現実はそんなに簡単ではありません。

力を抜いて技を掛けようとしても、
様々な「思い」が湧き上がってきて力んでしまう。

今日は上手く掛かったと思っても、
あくる日には全然上手く掛からない。

修練生の方なら、皆さんが感じておられることでしょう。

脱力が合理的な身体運動を生み出すということについては、
私の10年ちょっと程度の修練期間でさえ経験済みなのに。

力を抜いたほうが、楽に、しかも上手くいく。

それにもかかわらず、力んでしまう。

誰に教えられたわけでもないのに。

なぜなのでしょう?

ここにはきっと、自分では意識していない、
大きな「理由」があるはずなのです。

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忘れる力

最近の練気武颯拳の修練は、

「思いを手放す」

という方向に向かっていると感じます。

今、自分が考えていること、

あるいは考えさせられていることを、

スパッと止めてしまう。

これは、口で言うほど簡単ではありません。

「朝、出勤時に嫌なことがあると、一日中気分が乗らない。」

という経験は誰にでもあると思います。

その「嫌な思い」を、手放してしまう。

嫌な思いに囚われるのではなく、

無理にポジティブに考えるのでもなく、

ただ、手放してしまう。

私自身、こういう修練を始めたばかりなので、

なかなか上手くいかないことも多いのですが、

続けているとフッと思いが消える瞬間が確かにあります。

その時の心地よさは、

正直何物にも代えがたいと感じます。

このために今まで修練をしてきたといっても過言ではありません。

それくらい、「思い」とは「重い」ものなのです。

だから、手放してしまう。

早い話、忘れてしまえばいいわけです。

そうはいっても、

「覚えているものを忘れる」

というのはかなり難しいですよね。

だから、練習が必要なのです。

練習して「忘れる力」を磨くことが、

毎日を快適に過ごす秘訣なのです。

日々のストレスが心身に与える影響が大きいことは、

皆さんもご存じのとおりです。

しかし、同じような環境においても、

元気な人もいれば疲れている人もいます。

その違いはどこにあるのでしょうか?

適度なストレスは、

充実した生活を送る上で、

必要不可欠なものです。

ただ、それを自分の中に溜め込んでしまうと、

マイナスの影響が出てしまうのです。

だったら、忘れてしまえばいい。

それもできるだけ早く。

「忘れる力」、鍛えませんか?