ボストン美術館展で発見した印象派と身体運動の共通点

 

最終日のルミナリエに行く前に、

神戸市立博物館で開催中の、

ボストン美術館の至宝展を観てきた。

父親の役所勤めの最後の職場だった事もあり、

一時期は頻繁に通っていたが最近はご無沙汰。

久しぶりの博物館はやっぱりいい。

旧居留地にある建物からしてカッコいいし。

中に入っても吹き抜けのロビーがまた良し。

とりあえず順路に沿って3階から…の前に、

中の喫茶店で腹ごしらえ。

サンドイッチが美味しくてボリューミー。

花より団子?

修練の後だから、お腹減ってたんだよね。

 

 

ボストン美術館展は以前にも開催されていて、

その時も足を運んでいる。

モネのルーアン大聖堂の絵なんかは、

前回に引き続いて展示されている。

好きだから、何度観てもいいんだけどね。

ベタに印象派の絵はだいたい好きなんだけど、

シスレーとかがいかにもって感じでグッド。

逆にセザンヌとかゴーギャンは好みじゃない。

…何がどう逆なのかは分からないw

 

そんな印象派の絵を観るときにいつも気になること。

それは自分と絵との距離。

もちろん絵のサイズにもよるけど、

2、3メートルくらいから、

少しずつ離れながら観るのが好きだ。

でも人気の絵の場合、

たいてい絵の近くに人がたくさんいて、

観たい距離感で見ることが難しい。

悩ましい。

なので、この場を借りて愚痴を書く。

絵の楽しみ方なんて人それぞれだから、

誰がどんな風に観ようがその人の勝手だ。

そんなことは分かっている。

でも、あえて書こう。

必死に顔を近づけたら、

印象派の良さは分からないよ、と。

 

印象派の特徴は、

そのボンヤリしたタッチにあるよね。

近くで見たら大雑把な色を無造作に置いてるだけ。

にもかかわらず、

離れていくに従って徐々に輪郭が浮かび上がり、

やがてそれは一つの像を結ぶ。

それはあたたかな、どこか懐かしく感じる景色。

でもその景色に触れようと一歩近づくと、

その途端に輪郭はほどけて曖昧なものになる。

この温もりと儚さの同居こそが、

俺にとっての印象派の魅力なんだ。

だから、そんなに近くでジッと見てても、

良さなんてわかんないだろ?

…なんてことは、あくまでど素人の戯言。

自分が観たいように観れないから、

もっともらしい文句を言ってみた。

ゴメンナサイ。

 

ともかく、だ。

この印象派の特徴こそが、

実は合理的身体運動のカギでもある。

一つ一つは取るに足らない点の集合。

それが少しずつ輪郭をあらわにして、

やがて像を結ぶ。

そうして結ばれた像はなぜか、

写真以上の温もりを観る人に与えてくれる。

これと同じことを、

人のカラダでもやるのだ。

キラキラフレーズで言えば、

「アイソレーションからコンビネーション、

そしてインテグレーションへ」、だ。

 

まずはカラダを出来るだけ細分化する。

次にそれらを順番に連動させる。

最後はバラバラになったカラダが、

一つの意図のもとにまとまって動く。

脱力トレーニングの基本工程だ。

こうして再構成されたカラダの動きは、

以前とは次元の違うものとなる。

それはあたかも、

モネが見た朝焼けそのものよりも、

印象的な絵画のごとく。

…おお、上手くまとまった。

 

P.S.

オーナーらしきおばあちゃんがフレンドリー。

次回のデートにって、

小磯記念館のチケットをくれた。

次は六甲アイランドの美術館めぐりだな。

 

 

ルミナリエ、ブラック企業、サッカー。

 

先日、最終日のルミナリエを観に行ってきた。

いつもは市役所の辺りから東遊園地までの、

ゴール付近で眺めるのだけど、

今回は初めて元町駅からウネウネと歩いてみた。

意外に空いていたこともあって、

会場までは特にストレスを感じることなく行けた。

ただ会場に近づくにつれて前が詰まり出し、

歩きヅライ。

みんな入り口で立ち止まって写真を撮るから。

警官や警備員が注意しても効き目がない。

まあ、ほとんどその為に来てるんだろうしね。

なので脇にある歩道に上がって進もうとすると、

それも熱心に働く警官に注意された。

仕方なく列に戻ったけど、

少し進むとなし崩し的に歩道を進むことに。

するとそこではもう、警官も警備員も何も言わない。

最初に注意してた人達だけ負担が多いなと、

他人事ながら思った。

同時に、労力の無駄づかいだとも。

 

 

こんな負担の不均衡によるエネルギーの浪費は、

あちこちで見られる。

例えばサラリーマン時代の職場。

毎日のように残業して働く人もいれば、

いつも定時で帰る人もいる。

自分が定時で帰る側なら続けていたかもしれないなw

あるいはサッカーの試合。

ボールを持った相手を一人で頑張って追い回す。

周りがついてこないから、

横にパスを出されておしまい。

この連携の取れていないチグハグなシーンを、

最近はよく見る気がする。

いずれも周りと上手く連携出来れば、

一人にかかる負担を分散した上で、

パフォーマンスをあげることが可能だ。

 

これらと同じことは個人のカラダにも言える。

人にはそれぞれ動き方のクセがあって、

力の入りやすい部分とそうでないと部分がある。

例えば背骨。

多くの人は腰椎を動かすことは出来ても、

胸椎は動かせない。

すると身体を反らせたり物を持ち上げるといった動作に、

背中を参加させることができない。

結果、腰だけに負荷を掛けることになり、

負担が続けば痛めてしまう。

もちろん腰だけの話ではなく、

膝と股関節についても同様だ。

カラダの不調を整える為には、

痛む部分をどうこうするのではなく、

動かせない部分を動かせるようになればいい。

 

昔読んだジュラシックパークの小説に、

「マンデルブローの法則」というものが書いてあった。

正確には知らないけど、

「ある物を見たときに、

それを構成する要素をミクロにみても、

それの集合体をマクロにみても、

それらは全て似たような形をしている。」

という内容だったと思う。

要は、ブラック企業が無くならないのも、

サッカーが強くならないのも原因は同じ。

結局はそれらを構成する一人一人が、

ブラック企業と同じことを身体に対してやってるから。

自分の意識が届かない所を無いものとして扱っているから。

最終日のルミナリエを観ながら、

そんなことを考えていた。

 

占いと選択、そしてトレーニングについて

 

修練場所を借りている神戸の元町商店街には、

占いのお店が結構ある。

実は今借りている部屋の隣も、

以前は占い屋さんだった。

俺は行ったことがないけど、

知識や技術については興味がある。

ただ、人に相談して何かを選択する習慣が無いから、

多分お客にはなれないと思う。

というかぶっちゃけ、

自分のことを自分で決められない、

優柔不断な人が行くところでしょ?

なんて思っていた。

彼の話を聞くまでは。

 

今年の夏から来年1月いっぱいまでの、

期間限定で参加している修練生N氏。

脱力なんてマニアックなことをやっていると、

やっぱりマニアが集まってくる。

そしてその中でも、

N氏はオンリーワンな立ち位置を確保している。

彼はひと所にとどまっているのが苦手で、

数ヶ月ごとに住む地域を変え続けているという。

もちろん仕事も変えながら、転々と。

で、前の住処で習い始めた太極拳が面白くて、

神戸に来た時に探した結果、

ウチに来てくれるようになった。

 

そんな一人ジプシーのような彼が、

次の行き先を決める方法。

それが占いだったりする。

アカの他人の発言を土台として、

仕事や住む場所を選ぶ。

それは俺にはとても信じられない行為だけど、

本人曰く、自分自身にどこへ行きたいとか、

どんな仕事をしたいとかいうビジョンが無いから、

占いおじさんの言う方角に行くことに決めたらしい。

なんていうか、「自分が無い」という、

一見ネガティブに思える事象も、

ここまで徹底すると逆に清々しい。

優柔不断とか言ってゴメンなさい。

 

こうやって占いについて書いていると、

選択という行為について考えさせられる。

冒頭ではまるで俺が、

自分の意思で物事を選んでいるように書いた。

でもそれは色んな情報を自分のフィルターに掛けて、

もっともらしい理由としてるだけかもしれない。

その情報自体は結局のところ、

他人の発言の寄せ集めかもしれない。

だとすればそれは、

選択を占いに丸投げする行為と、

さほどの違いは無い。

選ぶ対象が異なるだけ。

それは様々な情報を選ぶのか、

情報を選ぶためのフィルター自体を選ぶのかの違い。

そう考えてみると、

フィルターを選ぶ行為の方が、

より上流での選択を行なっている気もする。

 

書いているうちに面白くなってきたので、

この「フィルターを選ぶ」という考えを、

トレーニングに当てはめてみよう。

 

一般的なトレーニングでは、

「自分」が競技に合わせた運動のやり方を練習する。

「自分」というフィルターを変えることなく、

そのやり方の良し悪しを判断したり、

あるいは得手不得手が決まったりする。

それはゲームに例えるなら、

ジョブごとにステータスや特技が決まっているようなもの。

どれだけ経験値を多く稼いでも、

「戦士」が魔法を使えるようにはならない。

なのでこの方法論においては、

フィルターに適した競技に取り組むことが、

成果を出すための重要な条件となる。

「戦士」は前衛で肉弾戦をして、

「魔法使い」は後衛から援護射撃をする。

その逆は無いし、やってもうまくいかない。

そしてフィルターと競技性がピッタリ一致すると、

「才能のある人」と呼ばれるわけだ。

 

それに対して脱力トレーニングや太極拳は、

自分というフィルターを変えようとする。

立ち方や座り方、歩き方や腕の上げ下げなんかを、

しつこいくらいに掘り下げてトレーニングする事で、

運動のやり方以前のカラダのあり方を見直す。

それをゲームの例でいうなら、

「戦士」から「魔法使い」へのジョブチェンジ。

だから、相応の経験値を積めば、

力が強くて魔法も使えるキャラになれる。

リアルのスポーツだと、

練習の意味が深く理解できたり、

出来そうもないと諦めていた技術が、

いつのまにか出来るようになる。

 

以上、両者を比較した上で、

俺が取り組むのは脱力トレーニングなんだけど、

当然メリットばかりではない。

デメリットもハードルもあるし、ちゃんと書く。

 

デメリットの最たるものは、

習得にそれなりの時間が掛かること。

生まれてこの方身に付けてきた様々なカラダづかいと、

その上に積み重ねた競技トレーニング。

それを一旦リセットしようとするわけだから、

一朝一夕ですむはずがない。

「戦士」が「魔法使い」にジョブチェンジしたら、

当然レベルを1から上げ直す必要がある。

一応「戦士」のステータスもある程度残るから、

全く同じ時間が掛かる訳じゃないのが救いってところ。

 

そしてハードルの一番大きなものは、

「自分」というフィルターへの愛着。

姿勢や歩き方にまで、

他人から細かく言われたくはないよね、普通。

自分が住むところを占い師に決められることに、

抵抗を感じるのと同じように。

つまりほとんどの人は、

「戦士のままで魔法も使いたい」

と思っている。

書いている俺自身も含めて。

そう考えてみるとN氏のように、

「自分」というフィルターを外して、

占いという他人のフィルターに丸投げするという行為も、

トレーニングの一環だと言えなくもない。

とにかくジョブチェンジしてみるという意味で。

もちろん何を代わりのフィルターに選ぶかは、

充分に吟味したいところだけど。

 

先にも書いた通り、

N氏は1月末には神戸を離れる。

次はもう一度東京に戻って、

途中まで覚えた太極拳を最後まで習うそうだ。

出会った時にそう聞いていたので、

俺は太極拳の型は教えていない。

ただ、姿勢や歩き方、腕の上げ下げなんかを、

様々な切り口で伝えている。

それが彼の今後の選択に役立つことを願いながら。