ホドラーと身体感覚、そして少数派の話。

 

兵庫県立美術館に、ホドラー展を観に行った。

そこで初めて、人物画を良いなと感じた。

私自身には絵の素養がないけれども、

神戸で行われる絵画展にはそこそこ足を運ぶ。

好きな画家と言えば、ゴッホ、モネ、ルノワールやマティス等、

本当にポピュラーな名前ばかり。

あ、フェルメールは外せないな。

とまあ別に詳しくもなんともないということが分かってもらえたと思うけど、

これは特徴的だと思える好き嫌いが1つあって、

それが「なぜか人物画が好きではない」ということ。

より正確には「興味がない」。

だから、ルーブル美術館でモナリザを見たときも、

なんでアレをみんなが有り難がるのか全然分からなかった。

 

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それが今回、ホドラーの作品を見ることで少しだけ理解できた。

モナリザの良さでは無く、なぜモナリザに興味が無いのかが。

 

人物画には、胸から上を描いたものが多い。

それはやっぱり「顔」「表情」を中心に描くから。

もちろんその奥にある「心」「人間性」がテーマなんだろうけど、

それを顔を通して感じ、描いている(ように見える)。

だから多くの場合、そういう画家が全身を描いても、

やっぱり意識の中心は顔、少なくても胸から上にある。

 

もちろんそれが多くの、本当に多くの人に評価されているということは、

そこに何かの共感を呼ぶものがあるのだろう。

でも残念ながらそれは、私には響いてこない。

「心」に興味が無いという訳ではない。

むしろ、それに振り回される自分をどうにかしたくて、

武術に取り組んでいると感じる。

にもかかわらず、これらの人物画にはやっぱり共感できない。

おそらく私は、顔を通した感情のやり取りが、

得意ではないか好きではないかのどちらかなのだろう。

 

たまにこんな言葉を聞くことがある。

「あいつは人の気持ちが分からない奴だ」

私はその度に、

「そんなもの分かんねーよ」

と思ってしまう。

そしてほとんどの場合、

「人の気持ちが分からない」

と言われている人の方が、

発言者よりも好きだったりする(笑)

 

私の好みはさておき、この、気持ちが分かるとか分からないという話。

これは、何を媒介として理解するかの違いにあると思う。

言葉、表情、仕草、態度、雰囲気、そういったものの何に比重を置くのか。

大切にするものが同じである人の間では、気持ちは分かり合いやすいかもしれない。

でも、それぞれに大切なものが違うと、どうだろうか。

ほとんどの人物画においてそれは、

顔を中心とした胸から上の何かに思える。

そしてそれは、世の中において多数派を占めるのだろう。

 

では、少数派の私は、何に比重を置いているのか、

あるいは置こうとしているのか。

私はそれが「身体感覚」だと思っている。

人を見たときに、

「その人の身体の感覚はどのようなものなのだろうか」

という点に意識が向く。

その感覚を頼りにして、その人を理解しようとする。

 

このようにして人物画を見たときに、

多くの場合はその身体感覚があまり伝わってこない。

だから、私は人物画に興味を持てなかった。

ところが、ホドラーさん。

この人の人物画には、明らかに伝わってくる身体感覚がある。

踊る女性、馬に乗ろうとする男性、斧を振るう木こり。

それぞれから確かな運動の感覚を感じられる。

そう、視覚と言うよりは、

運動感覚で鑑賞している感じ。

人物画を見てこのように感じたのは、今回が初めてのこと。

面白い。

同じ時代に生きている人であれば、

是非ともお会いして話を聴いてみたい。

何となくだけど、意気投合出来そうな気がする。

私だけでなく、おそらくは彼も少数派だったと思うから。

 

なにはともあれ、ホドラー展。

4月5日までなので、興味のある人はお早めに。